玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(5)

2016年01月01日 | ラテン・アメリカ文学

 アマルフィターノという登場人物の重要性は、彼の狂気がサンタテレサで起きている連続女性強姦殺人事件への恐怖とともに、深まっていくところに認められる。「アマルフィターノの部」と「フェイトの部」は、アマルフィターノの人格崩壊の過程を描いたものとみなされるだろう。
 それにしてもボラーニョという作家は、第1部「批評家たちの部」でもそうだが、夢を多用する。この夢が登場人物達の不安な心性を象徴するものとなっていて、読者は登場人物と夢を共有することにおいて、不安や恐怖をも共有することになる。
 アマルフィターノは夢の中でも例の"声"に出会うだろう。
「夢のなかで女性の声がした。声の主はペレス先生ではなくフランス人で、記号や数字、そして「ばらばらになった歴史」あるいは「解体され再構築される歴史」と呼ぶ、アマルフィターノにはよく分からないものについて語っていたが、再構築された歴史は違ったものに、余白への書き込みに、洞察に満ちた注解に変わり、安山岩から流紋岩へ、それから凝灰岩へと飛び移り、ゆっくりと消えていく高笑いとなり、そうした先史時代の岩々から水銀のようなものがあふれ出す。アメリカの鏡、と声はいった。アメリカの悲しい鏡、富と貧しさの、つねに無益な変化の鏡、苦痛の帆を張って航海する鏡」
 この夢におけるフランスの記号学者による講義から、突然に地質の話へと移り、さらに水銀への連想から鏡のことに移っていく変幻ぶりは分裂病的である。この分裂病的な夢を読者はアマルフィターノと共有することを強いられるわけで、それによって読者もまた不安に責め立てられることになる。
 夢は『2666』において重要な要素である。地質学については、この日アマルフィターノが娘とその先生とその息子とピクニックに出掛け、そこで眺めた地層から来ていることは分かる。しかし、いきなり水銀から鏡へと飛躍する連想の突飛さが分からない。だが「アメリカの鏡」「アメリカの悲しい鏡」「富と貧しさの、つねに無益な変化の鏡」という部分は、メキシコという国への言及であり、それはカルロス・フエンテスが『ガラスの国境』で展開しているメキシコ論と共通しているのだということは分かる。
 学部長の息子マルコ・アントニオ・ゲーラは、アマルフィターノが現在置かれている状況について正確に把握している。彼は次のように言う。
「あなたは僕に似ている。僕はあなたに似ている。あなたも僕も、落ち着けない。二人とも窒息しそうな環境に身を置いているんです。何も起きていないかのように振る舞っているけれど、実は何かが起きている。何が起きているか? 窒息しそうなんですよ、まったく」
 この「窒息しそうな環境」こそ、ボラーニョがアマルフィターノが見る夢を通して描こうとしているものに他ならない。そしてアマルフィターノの不安と恐怖は、『2666』という小説全体を通しての基調となっている。
 しかし、何という大長編小説だろう。ボラーニョは作中で、長編小説の本当の価値についてアマルフィターノに語らせてもいるのである。バルセロナで出会った薬剤師が読んでいる本として『変身』や『バートルビー』『純な心』『クリスマス・キャロル』などを挙げる場面がある。
 これらはそれぞれ、カフカ、メルヴィル、フローベール、ディケンズの短編・中編作品であり、アマルフィターノはなぜ長編作品である、『審判』『白鯨』『ブヴァールとペキュシェ』『二都物語』を挙げないのかと憤っているのである。アマルフィターノの憤りはボラーニョ自身のそれと同じであろう。
「いまや教養豊かな薬剤師でさえも、未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことを知ろうとはしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを」
この言葉はおそらく、ボラーニョ自身が『2666』で意図したことを正確に語っているだろう。

 

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