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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(6)

2018年03月04日 | ゴシック論

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(6)
 アクセルのこの言葉は間違いなく彼の〝迷い〟を示している。〝知ること〟を断念し、〝生きること〟を欲するアクセルの願望は、もはやカスパルに対して放った真実の言葉からの後退に他ならないからだ。
 そしてこのアクセルの〝迷い〟は「第4章 情熱の世界」の第4場以降のアクセルとサラとの二人きりの場面に引き継がれていく。あるいはむしろ、ここでアクセルに〝迷い〟を与えておくことが、第4場以降のドラマにより緊迫感をもたらすことになるのだと言っておこう。
 アクセルは師ジャニュス先生の「汝は「光明」と、「希望」と、「生命」とを受け容るるや」という最後の詰問に答えて、「いいえ」と言い放つ。だからこの場は「?棄者(ほうきしゃ)」と題されている。「?棄」は「放棄」とほぼ同義、原語ではLe renonciateurである。
 そしてもう一人の「?棄者」が用意されている。それは『アクセル』の最初の場面、修道院に幽閉されんとするサラ・ド・モーペールが副司教の「そなたは「光明」と、「希望」と、「生命」とを受け容るるや」という詰問に対して「いいえ」と答える場面である。
 二つの詰問はまったく同じである。しかし、サラの場合には「光明」「希望」「生命」が神への帰依によってもたらされるものであるのに対し、アクセルの場合にはそれは智恵や知識への帰依によってもたらされるものという違いがある。
 しかし、サラのこの場面も「?棄者」と題されているし(こちらは女性名詞でLa renonciatrice)、まったく同じ詰問がなされることにおいても、この物語の中で完全な〝対〟の構造をなしている。だから二人の「?棄者」は必ずどこかで出会わなければならない。
 第4章でサラが唐突に登場する時に、読者である我々にまったく違和感がないのはそのためである。と言うよりもむしろ我々は第4章でサラが登場するであろうことを、最初から知っているのである。宿命的な出会いの作者による周到な準備がなされていると言わなければならない。
 そしてサラは「失われた王杖を掴むために」修道院を逃れ、アクセルの城までやってきたのである。これでつじつまが合うのだが、そのかわり財宝の持つ世俗的な意味が拡大してしまうのはやむを得ないところか。
 サラは財宝を地下墓地の隠し所に発見するが、それを見ていたアクセルに気づいて、ピストルを撃ってアクセルに傷を負わせる。アクセルはサラを殺そうとするが、サラの美しい顔を見て思いとどまる。
 ここから再びというか、三たび、二人の間の形而上学的な会話が始まるのである。アクセルはサラからの誘惑を感じ取り、それに対して最初の抵抗を言葉にする。

「――わたしは愛することを欲しない者だ。……わたしの夢想はそれとは異なる光明を知っているのだ。――汝に禍あれ、といふのも汝は、その妖術の如き出現によつて、我が夢の古りし希望を掻き擾した誘惑者であつたからだ。――この世にあつてそなたを知つたことは、今より後、必ずや、私が生きることを妨げることであろらう! さればこそわたしは、亡骸(なきがら)と化したそなたの姿を眺めたいのだ……」

 このアクセルの言葉には嘘がある。彼はすでにカスパルを殺したことによって「我が夢の古りし希望を掻き擾」されていたはずであり、だからこそジャニュス先生の詰問に「いいえ」と答えたのであり、「俺は生きたい! 俺はもう知りたくない!」との迷いの言葉を口にしたのではなかったか。
 しかも誘惑されるのは当人の責任であって、必ずしも誘惑者の責任ではない。すべての責任を誘惑者に転嫁するのは身勝手というもので、そのために誘惑者が死ななければならないなどという理屈は無茶というものだ。
 だから、それを聞いたサラは「おお聴いたことのない言葉!」と返し、アクセルの殺意を疑って次のように言うのだ。

「いいえ! もう遅すぎますわ。その超人的なお言葉の燃え立つ炎(ほむら)であなたの魂をかいま見せるやうなことをなさらずにわたくしを打ち殺すべきでした!」

と。

 


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