玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(5)

2018年03月03日 | ゴシック論

 この後に待っているのは思いもよらぬアクセルの変節である。その変節はカスパルを殺したことによってもたらされたものであるらしい。アクセルは学問の世界(錬金術の秘法)に戻ろうとして本を開くが、それを読むことができない。アクセルのここでの科白……。

「――かつて幾たびか、その燦爛たる光がおれを眩惑したこれらの言葉さえ、今はよそよそしく思へるほど、俺の魂は上の空なのだ。――已んぬるかな! 何物かが通り過ぎて俺を地上に呼び戻した。おれは身裡に感じる、おれは生きたいのだ!……」

 こうしてアクセルはこれまで錬金術の秘法を学んできた師ジャニュス先生との思想的対決の場面に入っていく。二人の対決は〝知ること〟と〝生きること〟とのそれであって、『アクセル』の中でも最も形而上学的な議論が集中する場面となる。
 息詰まる対決である。二人の修辞の限りを尽くした議論のやりとりは『アクセル』にあって最も高みにある場面と言えるし、このような議論の展開はおそらくゲーテの『ファウスト』の影響の下にあるのだろう。フランス文学でこのような形而上学的な議論を中核に据えた作品を私は寡聞にして知らない。
 ジャニュス先生は「自己の裡に、あらゆる情慾を制し、あらゆる食慾を忘れ、あらゆる人間性の痕跡を亡ぼし、――解脱によって超克」することをアクセルに要求する。その言わんとするところはあまりに高邁で、ある意味では蠱惑的ですらある。

「神々のごとく、信仰によって「非創造・実在(つくられずしてあるもの)」の中に遁れ去れ。汝の星辰の光芒の中に汝自身を成就せよ! 湧き出でよ! 刈入れよ! 上昇せよ! 汝自身の花となれ! 汝は汝の考ふうるものにすぎぬ、されば己れを永遠なりと思へ。開く扉を疑つて時を失ふな。汝が己れの胚子の裡に授け与へたる未来、しかも汝に委ねられし未来をば、寸刻たりとも疑ふな。――もろもろの疑惑の彼方、一切の夜の彼方に、そなたの永劫不滅の実在が燦として輝くのを感じないのか!」

 神の下にあらゆることを知り尽くすこと、そのために一切のものを犠牲にすること、そのことをジャニュス先生はアクセルに要求する。しかしこれは、〝智恵〟の名のもとに人生を転倒させる倒錯した思想であって、アクセルはそれに従うことができない。
 議論は〝記憶〟ということを巡っても展開する。アクセルは「死が一切の記憶を亡ぼしてしまう」なら、そんなことになんの価値があるのかという疑問に囚われている。しかしジャニュス先生は記憶ということ自体を決然として否定する。

「すでに現世に於て、そなたはきのふの日を覚えてゐるのか。過ぎ去るもの、移ろふものは、想い起こすに値するのか。一体そなたは何を覚えてゐるのか。」

しかしアクセルは、ジャニュス先生の言葉を肯定することができない。

「数と、空間と、形態との、かの究極(いやはて)の大海原に於て、自意識を失はずに、私がなほも存在するといふことを、誰が保証してくれるでせうか。」

 記憶とは生きたことの証である。記憶を否定してしまえば生きることにはなんの意味もないことになってしまう。アクセルはそのことを恐れているのである。アクセルは最後に叫ぶ。

「おれは生きたい! おれはもう知りたくない!」

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿