玄文社主人の書斎

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シャルトル大聖堂の崇高美(2)

2020年01月04日 | ゴシック論

シャルトル大聖堂西側正面

 

 まず、至近距離から(と言ってもあまり近すぎると二本の尖塔が頭上にしか見えなくなるので、前庭の真ん中くらいから)西側正面を眺める。なんと言ってもあの二つの塔、南側のロマネスク様式による鋭角の二等辺三角形を形づくる素朴な塔と、北側のたっぷりと装飾を施したゴシック様式による塔の高さに圧倒されないわけにはいかない。

 ユイスマンスが『大伽藍』の冒頭で、暁闇の中におぼろに姿を現していく、二つの塔を凝視する場面が思い出される。次の引用はその直前の描写である。

 

「デュルタルがやや視線を落として、今度はまっすぐ自分の前のあたりを凝視すると、煙るような薄明を透して、数箇の巨大な刀身、柄も鍔もない、切っ先へ向かって先細になったいくつかの刀身が、早くも見分けられた。濃霧のような闇を切り裂いて、途方もない高みに直立するそれらの刀身は、沈彫にせよ、浮彫にせよ、よほど不安げな、ためらいがちな手に刻まれたものと見えた。」

 

 ここでユイスマンスが刀身に譬えているのは二つの巨大な塔のことではなく、その下に林立する中型の尖塔のことに違いない。二つの巨大な塔は刀身に譬えるにはあまりにも巨大すぎ、あまりに高すぎるのだ。しかしユイスマンスは、シャルトル大聖堂の前に立った時に感ずる圧倒的な威圧感をよく表現していると思う。私に見えたのは凶器のように威圧的な巨大な刀身のような、二つの石の尖塔であった。

新旧二つの塔を見上げる

 

 そこにはパリ大聖堂の正面とは大きな違いがある。中央の三つの扉口も、その上の先の円くなった縦長の窓も、さらにその上のバラ窓も共通しているが、二つの塔が全く違っている。パリ大聖堂の二つの塔は、下から上まで同じ幅を保って、先端は平らになっているが、シャルトルの二つの塔はまさに尖塔であって、上空に行くほど細くなっていって、ついに天空に消失する瞬間を迎えるのである。

 ゴシック建築がその昇高性を特徴とするならば、正面の塔は天空に駆け上がっていく尖塔でなければならない。ユイスマンスは「どんな塔にせよ、先細の鐘楼を持たぬ塔は、天空に翔け上がることはできない」と言い、次のようにパリ大聖堂の双塔を貶めている。

 

「パリの聖母堂の塔を検討してみるがよい。鈍重で、陰気で、ほとんど象みたいに肥えている。ほぼ上から下まで苦しげな開口部を穿たれたこれらの塔は、ようやくのことで立ち上がりながら、重い体躯がすぐ背伸びをやめてしまう。」 

 

 パリ大聖堂の正面が威圧感を与えないのは、あの鈍重な双塔のせいなのだ。その高さもまた比較を絶していて、パリの双塔は63メートルしかないのに、シャルトルの南塔は105メートル、北塔に至っては113メートルの高さを誇っているのだ。

 高さというものはそれだけで威圧的な圧力をもたらすものである。私のような高所恐怖症の人間には、高いところに登ればそれだけで恐怖の原因となるのだし、高い建物を見上げればその上に立った時の恐怖を想像しないではいられないからだ。

 しかもそれが石で造られているということが、威圧感の大きな要因となる。ゴシック建築の昇高性は物質としての石の存在を忘れさせてしまうといわれるが、私にはそんな風には感じられなかった。あんな高いところまで石を積み上げるという事実そのものが畏怖するに足るものであり、石の存在感、重量感がどうして私に威圧感を与えないことがあろう。

 とにかく私にとってのシャルトル大聖堂の第一印象は、威圧感に溢れる建築物と言うに尽きるものであった。

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