玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(7)

2018年03月05日 | ゴシック論

 先のアクセルの言葉にはもう一つ嘘がある。「この世にあつてそなたを知つたことは、今より後、必ずや、わたしが生きることを妨げることであらう!」という部分である。
この部分はジャニュス先生に対して「おれは生きたい! おれはもう知りたくない!」と言った言葉と矛盾している。サラの存在が「わたしが生きることを妨げる」というのは、「おれは生きたい!」という言葉の内実と相反している。
 むしろこう言うべきだろう。「そなたの存在は、今より後、必ずや、わたしがわたしの夢想を実現する妨げになることであろう!」と。つまりサラの存在は、アクセルが生きることを妨げるのではなく、アクセルが知識の世界を極めようとする夢想を妨げることになるはずだ。
 ここには嘘と迷いがある。しかし、アクセルはそれを立て直していく。どのようにしてか。それは一度、サラの誘惑、肉の喜びへの誘惑に屈することにおいてである。サラの誘惑は強烈である。

「誘惑されておしまひなさい!――東邦(オリヤン)の美酒のやうに陶然と酔はせる不思議な綴りの言葉もお聴かせしますわ! 命を奪ふ愛撫の中にあなたを眠らせることも出来ましてよ。限りのない歓喜や、えも言はれぬ叫び声や、あらゆる希望がその中に絶え入るやうな逸楽の秘訣も心得てゐますわ。おお、わたしの白い肌のなかにお身体をお埋めになって。そしたらあなたの魂はそこでさながら雪に埋もれた一輪の花のやうになつてしまいますわ。この髪の毛でお身体をお包みになつて。……」

 なぜ処女であるはずのサラがこのような慎みのない言葉を吐くのかと問うべきではない。そうではなくアクセルの肉への欲望が、サラにこのような誘惑の言葉を要求するのである。リラダンは実相を描いているのではない。実相を描きたいのでもない。
 もとより『アクセル』はリアリズムの要素をまったく欠いているし、リラダンが目指すものもそこにはない。サラとアクセルの対話は、他者同士の対話に見えて実はそうではない。
 すべてはモノローグである。これまで見てきたカスパルとの対決も、ジャニュス先生との対決も、最後となるサラとの対決も、ダイアローグであるのではない。すべてはアクセルの心中におけるモノローグなのである。
 しかし、モノローグとは単に一つの意識の中の純粋思考を意味するのではない。どのようなモノローグもその中にダイアローグの要素を含まずにはいないということが、言語にとっての宿命である。
 アクセルはサラとの対話(対決)の中で、サラ自身の肉体への誘惑に応答するのではなく、自らの内部の肉への欲求に対して応答しているのである。

「わたしの愛と欲望とは、ひしとそなたを抱締め、そなたに浸み入り、おお恋人よ! そなたを激昂せしめ、そなたのなかに死んで……再びそなたの美しさのなかによみがへるのだ。!」

だからサラの存在は幽霊のようなものであって、実在とはほど遠いところに押しやられている。そして読者はサラの存在感の希薄さや、彼女の言葉のありえなさについて云々することを禁じられているのである。


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