玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

シャルトル大聖堂の崇高美(3)

2020年01月05日 | ゴシック論

 ゴシック大聖堂のほとんどは二つの塔を持っているが、それもパリ大聖堂のように同型の塔を戴いているものがほとんどである。大聖堂ではないが今回パリで見た、サン・シュルピス教会も円筒形の二つの同じ塔を持っていた。なにせ左右対称形であることは、建物の安定したイメージにとってこの上もなく重要な要素であり、教会がもともと十字架の形をしているとしたら、そこにもまた左右対称形へのこだわりが認められる。

サン・シュルピス教会の二つの塔

 そんな中でシャルトル大聖堂だけは、左右の塔の大きな違いによって左右対称性を破っている。元々そういう意志があってそうなっているわけではなく、1194年の火災で南塔が焼け残り、その後ゴシック建築として再建された時に北のゴシック塔を新築したのではあれ、結果として左右対称性を損なっているのは明白である。

 ユイスマンスはそのことについて何も言っていないが、馬杉宗夫はその『シャルトル大聖堂』の中で、二つの塔の〝調和の美〟ということを言っている。いかにもそんな言い方は褒め殺しの一種なのであって、そのような美意識こそ歪んでいると言わざるを得ない。

 一つはロマネスク様式で装飾のない幾何学的で素朴な塔であり(今回パリで見た中ではサン=ジェルマン=デ=プレ教会の一本の塔がそれに似ていた)、もう一つは装飾彫刻と小さな尖塔で満艦飾に飾り立てられたゴシック様式の塔(これをフランボアイヤン様式というらしい)で、この二つは明らかに建物全体の調和を損ねている。見るものはそこに居心地の悪さを感じないではいられないし、そうした齟齬がシャルトル大聖堂正面の大きな特徴をなしていることは明らかではないか。

サン=ジェルマン=デ=プレ教会のロマネスク様式の塔

 そんな居心地の悪さは、二つの途方もなく高い塔の威圧感を増大させることはあっても、減少させることはない。むしろ時代の違う二つの塔を併置させておくという思想の中には、安定感を損ねてもかまわないという姿勢が見て取れるし、聖母マリアに捧げられた教会であるのに、少しも優しさを感じさせない、この大聖堂独自の美学を読み取ることができる。

 正面の彫刻は後回しにして、南塔の方から左廻りに回ってみよう。これはパリ大聖堂の時とは逆方向の廻り方を意識的にやってみたのである。パリ大聖堂の時には正面のゴシック建築とは思えない、優美だが重苦しいイメージが180度変わるという体験をしたのだったが、今度の場合は正面からして十分にゴシック建築の特徴を備えているから、側面に回ってイメージが覆るようなことはない。

 南側の側面に回るとすぐにあのフライング・バットレスのこれまた無骨で威圧的な姿が目の前にせり出してくる。パリ大聖堂の場合と違って正面から側面、後陣に至るまで建物を至近距離で眺めることができるから、眼前にフライング・バットレスのグロテスクな姿形が迫ってくるのである。

 シャルトルのフライング・バットレスは、パリ大聖堂のような長いアーチ型構造ではなく、短くて太い構造になっている。その基部も階段状の造りになっているのは同じとしても、パリのそれよりもずいぶんと太い。それ自体グロテスクではあるものの、パリ大聖堂の優美さをシャルトルのそれはまったく持っていない。天井の高さの違いが影響しているのだと思うが、フライング・バットレスに掛かる圧力の違いを感じさせる。

 とにかく大きなブロック状の石の塊が階段状に積み上がって、その先端が建物を支えているのが、もろに見える。ここにも私はのしかかってくるような威圧感を感じてしまったので、ガイドブックの言う〝世界でもっとも美しいゴシック建築〟という讃辞に疑問さえ感じたのである。明らかにシャルトル大聖堂の外観は男性的な無骨さに支配されている。

シャルトル大聖堂のフライング・バットレス基部

 エドマンド・バークはその崇高と美の観念を、男性的原理と女性的原理に還元して考察したが、シャルトル大聖堂の外観には女性的な要素はまったくない。正面の巨大な刀身を思わせる尖塔といい、側面のフライング・バットレスの無骨さといい、後で見ることになる後陣のグロテスクと言うべき姿も、すべてが男性的原理に支配されているのである。

 

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