玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(9)

2018年01月14日 | 読書ノート

 マイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』は全部で八つの章からなっていて、テーマも様々だ。呪術論のような文化人類学的なテーマもあれば、〝侵犯〟というようなバタイユの思想に影響されて書かれた章もある。
 なかでも第7章「NYPDブルース」はニューヨーク市警察のことを扱った章で、警察というものが本来もっている暴力=法を超えた暴力をテーマとしている。文化人類学はもともと、ヨーロッパ人が未開人の社会の分析を通して、人間の社会を解明しようとする試みで、現代の西欧社会を対象とすることはほとんどない。
 タウシグはそのような未踏の領域にまで踏み込んでいくのだが、その時に援用されるのもまたベンヤミンなのである。「暴力批判論」こそ分析のための道具として利用される論考である。しかし、私は「暴力批判論」も読んでいない。
 この本は読めば読むほど理解が深まるのではなくて、逆に理解のために読まなければならない本がどんどん増えていくという風にできている。しかもその参照先は、第一にベンヤミン、そしてバタイユ、ニーチェなど、文学・哲学に関わる本である。
 だからタウシグの試論はまるで文学批評のようなものとして読むことができ、文化人類学になじみのない人間にも接近可能なものではあるが、いかんせん難しい。その難しさは主にベンヤミンのテクストのもつ難解さに還元されるように思う。
 ベンヤミンのテクストをきちんと読み、彼の考え方を理解した上でないと、タウシグの議論について行くことができないのだ。だから私はこれ以上先に進めない。ただし、タウシグのこの本があまりにも魅力的なので、いったんベンヤミンの世界に戻って、主要な著述を読み、理解を深めてからもう一度読んでみたいという意欲を掻き立てられるということは言っておきたい。
 しかし第3章「太陽は求めず与える」は、第2章「アメリカの構築」に出てくるベンヤミンのボードレール論における議論を、さらに展開させている部分があるので、最後に少し触れておくことにしたい。
 第3章のテーマは「悪魔の契約」である。と言うよりは「悪魔との契約」といった方が分かりやすい(以下読み替えてほしい)。「悪魔の契約」というテーマは、直接的にはコロンビアの農民が悪魔と契約を結ぶことによって、一時的には大きな富を手に入れるが、すぐにそれは蕩尽されてしまうという、どこにでもある話に関わっている。
 タウシグはすぐにベンヤミンのボードレール論を援用して、「無意識的記憶」と「意識的記憶」の問題に入っていく。なぜ「悪魔の契約」にそのような「記憶」の問題が絡んでくるのかすぐには分からないが、ベンヤミンの文章を読んでいるうちにそれとなく分かってくる。

「厳密な意味での経験が宰領しているところでは、記憶のなかで、個人的な過去のある種の内容と集合的な過去のそれとが結合する。(中略)祝祭をそなえた礼拝はつねにあらたに記憶のこの二つの素材を融合させた。礼拝は特定の時の回想を喚起し、生涯にわたって回想を管理するものであった。意志による回想と無意識の回想とはこうしてその排他性を失うのである。」

 このベンヤミンの文章からタウシグは、「祝祭」という言葉を取り上げて、次のように言う。

「祝祭とは、認可を受けた侵犯の時間であり、過剰な消費と過剰な供給、浪費と贈与を発生させる。」

 ここでは、過剰な消費を巡るバタイユの社会学が先取りされているのだが、「祝祭」という言葉をキーワードとして、人間の記憶の問題が悪魔の契約による過剰な供給と消費の問題に置き換えられていく。
 そこに介在するのがボードレールの「コレスポンダンス」なのであって、タウシグはここではっきりと「コレスポンダンス」と類感呪術との類縁性を言う。そこでは記憶の問題が祝祭に(ベンヤミンに言わせれば「祝祭をそなえた礼拝」に)関わってくるのであり、悪魔の契約もまたそこに関わってくるのだから。
タウシグはまた、悪魔に代わるものとしてのマリファナにも触れているが、そこに見出だすのも「悪魔とハッシシのあいだのボードレール的な照応」なのである。すべては〝類感呪術〟ということに結びついているのである。
 タウシグの議論はここから近代の経済史へと展開していくのだが、そこでも「悪魔の契約」は厳然として生きている。むしろ近代こそが「悪魔の契約」によって導かれてきたのだとタウシグは考える。ボードレールやベンヤミンが援用されるのは妥当なことなのである。

 これで終わりにするが、この本の帯に書いてあった「ゴンゾー人類学」という言葉は何なのか。訳者あとがきによればそれは〝常軌を逸した〟という意味なのだそうで、確かにマイケル・タウシグは人類学者としては常軌を逸しているのだと、私でもそう思う。
(この項おわり)

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿