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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(11)

2018年03月09日 | ゴシック論

『アクセル』全編を支配しているのは〝人生は生きるに値するか?〟という形而上学に他ならない。そして最後にVivre? les serviteurs feront cela pour nous.という結論が来て、さらに全人類に対する滅亡への呼びかけで終わるというわけだ。
 カスパルとの決闘を前にしたアクセルの長広舌は、俗世間の価値観に対するより高邁な精神がする反撃であった。ジャニュス先生との対決は〝知ること〟と〝生きること〟との優先順位をめぐっての思想的対決であった。そしてサラとの対決は、人間の本源的な欲望に対するアクセルの存在を賭けた否定によって特徴づけられた。
 こうしてゴシック小説は形而上学を誘発する装置としての意味を持ち始めるのである。これこそが『アクセル』のゴシック小説としての最大の特徴であったし、ゴシック小説に対する最大の貢献であったと言わなければならない。
 ゴシック小説はアン・ラドクリフの例を持ち出すまでもなく、その多くは娯楽的要素を強く持つものであった。しかし、ゴシック小説の最高傑作といわれるマチューリンの『放浪者メルモス』は、娯楽的要素も持ち合わせてはいるが、形而上学的な要素も持っている。
 あるいはジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』もまた、娯楽性を保持しながらも、真のテーマを悪魔とそれに取り憑かれたものとの対決ということに置いていて、形而上学的テーマを十分に持ち合わせた作品であったことを思い出さなければならない。
 またアメリカにおけるゴシック小説の正当な後継者であるエドガー・アラン・ポオの作品は、そのほとんどが短編であるという事実において、形而上学的な議論を展開させるに十分なものではなかったが、その背後にそうしたものを孕んでいるという意味では傑出したものであった。
 ヴィリエ・ド・リラダンもポオの影響を強く受けた作家であり、その短編作品は優れてポオ的であるといえるし、『未来のイヴ』にしてもポオの影響なしには考えられない作品である。『アクセル』もまた、ポオの隠された形而上学の影響下にある作品なのかも知れない。
 しかし、リラダンの『アクセル』はあくまでも、ゴシック小説の中に形而上学的要素を持ち込んだ独創的な作品としての価値を持ち続けている。それはゴシック小説の可能性を大きく広げた作品なのであった。
 アクセルはカスパルの「わたしは何処にゐるのか」という質問に対して、広大な森に守られた石造の館にいる、と答えていて、それについて私はそれがアクセルの意識を守る強固な要害の隠喩であることを指摘したが、ゴシック小説の特徴はその舞台装置がそのまま、主人公の精神的なあり方の隠喩として機能するというところにある。
 シュヴァルツヴァルトの中央に位置する古城は、直接的にアクセルの精神の隠喩なのであり、すべてが古城において展開するということは、つまりはすべてが閉鎖空間としてのアクセルの精神の内部において生起するということに他ならないのだ。
 だから何度も言うように、アクセルとカスパル、ジャニュス先生、そしてサラとの対決は、閉鎖空間における自分自身との対決を意味しているのであって、どこまで行っても主観の軛を逃れることができない。
 しかしそのことが20世紀文学における「客観的なものから主観的なものへ」という流れの源流になっているとしたら、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』はいつまでもその価値を失わない傑作戯曲なのである。
(この項おわり)

 


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