プルーストは人間の〝記憶〟というものについての探究を行い、ジョイスは人間に〝意識〟というものへの探究を行って、20世紀文学の方向性を決定づけた。そしてその源流にヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』があったということになる。エドマンド・ウィルソンが彼の評論集のタイトルを『アクセルの城』としたことには、そのような理由があった。
ところで私は、この『アクセル』の項を「ゴシック論」に位置づけた。それはこの作品がゴシック小説の条件を完全に満たしているからである。
まず『アクセル』はサラが幽閉されようとしている修道院の舞台から始まる。修道院への幽閉とそこからの脱出というテーマは、ルイスの『マンク』、マチューリンの『放浪者メルモス』などと共通するものであり、ゴシック小説に特有のテーマである。
そして主な舞台は「北部ドイツの東、シュヴァルツヴァルトの中央に孤立してゐる辺境総督ドーエルスペール家の、いたく古りた城砦」なのである。第2幕から第4幕まではこの辺境にうち捨てられた城の内部で展開するのであり、それはゴシック小説に特有の閉鎖空間を実現している。
クリス・ボルディックのゴシック小説についての定義を思い出してみよう。それは以下のようなものであった。
「ゴシック的効果を獲得するために、物語は、時間的には相続することを恐れる感覚に、空間的には囲い込まれているという閉所恐怖的感覚に結びつけられるべきで、こうした二つの次元は、崩壊へと突き進む病んだ血統という印象を生み出すために、お互いを強め合う。」
ボルディックの定義はリラダンの『アクセル』に完全に合致する。まず空間的には「閉所恐怖的感覚」に支配されているという意味で、『アクセル』はポオの『アッシャー家の崩壊』と同様に典型的である。しかもその閉所恐怖が閉所愛好とアンヴバレンツな関係においてあるという意味でも、『アッシャー家の崩壊』に共通する。
さらに第4幕、サラとアクセルの二人だけの場面は、財宝が秘匿された地下埋葬所を舞台とするのであり、閉鎖空間としての性質はさらに強化される。
そして時間的な相続恐怖ということについては、例の財宝がまずその役割を担っていると言える。アクセルを激怒させたのはカスパルがその財宝に言及したからであって、その話題はアクセルにとって永久に秘密しておかなければならないものであった。
なぜなら財宝の存在はアクセルの中に世俗的な関心を呼び覚ますからであり、それは決してあってはならないことであった。アクセルは父親が秘匿した財宝を相続することを自ら禁じているのであり、そこに相続恐怖を見ないわけにはいかない。
さらに父親の名誉に関する部分、それもまた相続恐怖につながっている。父親の名誉を守るためにも、財宝はアクセルにとって存在してはならないものであって、財宝の発見は父親の名誉を、ひいては自らの名誉を傷つけることに他ならない。そこに〝血統〟という意味での相続の相があり、これもまた、呪われた血統に恐怖する『アッシャー家の崩壊』との共通性をもつ。
「いたく古りた城砦」は、ゴシック小説には欠かせない舞台装置である。そこであらゆるゴシック的想像力が花開くのである。ウォルポールの『オトラント城奇譚』も、ラドクリフの『ユドルフォの謎』もそうである。
ただし、彼らの古城の中では通俗的なドラマが展開するだけなのに対して、『アクセル』の方はそうではない。『ユドルフォの謎』では主人公エミリーが幽閉され、そして救い出される手に汗握るスペクタクルの主要舞台が古城であったが、『アクセル』ではそのような活劇の意味はほとんどない。カスパルとの決闘やサラとの暴力的な出会いはあるが、もっと重要な要素が『アクセル』を支配しているのである。
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