阿部良雄訳による第一連を参照してみよう。
〈自然〉はひとつの神殿、その生命ある柱は、
時おり、曖昧な言葉を洩らす。
その中を歩む人間は、象徴の森を過り、
森は、親しい眼差しで人間を見まもる。
この部分が、カステルの理論「われわれは、あらゆるものを表現しうる象徴の総体として世界を記述することができる」に影響していることは明らかである。さらに最終連も見てみよう。
無限な物とおなじひろがりをもって、
龍涎、麝香、安息香、薫香のように、
精神ともろもろの感覚との熱狂を歌う。
この部分もやはり、カステルの「われわれの感覚の配列を変えるだけで、あの自然界のアルファベットによるべつの言葉を読むことができるだろう」という理論に対応していることが分かる。
私には『モレルの発明』にそれほど深い形而上学を読み取ることは出来ないのだが、むしろ『脱獄計画』の方にこそ、人間の感覚や認識のあり方と世界像との関係についての深い考察を読み取ることが出来ると思う。
ビオイ=カサーレスの『脱獄計画』は、単に不快で忌まわしい人体改造についての物語に止まるのではなく、ヨーロッパの文学思潮(ボードレールの「万物照応」は象徴主義の原点とされている)と深く結びついているのである。
しかし、カステル総督の実験が忌まわしいものであることは否定しようもない。脳の手術を施すことで人間の感覚の配列を変え、新しい世界を現出させようなどという試みを我々は許容することが出来ない。
『モレルの発明』では、極めてSF的な発想に基づいたホログラムというスマートな装置が中心的役割を果たしているが、『脱獄計画』ではモロー博士の動物改造手術のような、即物的で不快な実験が中核をなす。
私はここで、イギリス恐怖小説の三巨匠の一人と言われる、アーサー・マッケンの「パンの大神」という作品を読んだ時の不快きわまりない印象を思い出さないわけにはいかない。
この小説は、ある少女が脳の手術を受けて「感覚というものの固定した壁」を破壊され、パンの大神を見てしまうシーンから始まる。少女は長じて、パンの大神と通じ、「淫楽の化身となり、多くの男を淫楽のとりこにして殺していく」(訳者平井呈一による要約)という物語である。
ビオイ=カサーレスがH・G・ウェルズだけでなく、アーサー・マッケンを参照していることは明らかであるが、性的な要素を排除しているだけマッケンよりも穏当である。しかもマッケンのように太古の神といった超自然的なものを持ち出さないだけ、不快感は少ない。
しかし、感覚の改変によって世界像が変えられてしまうという現象を、ビオイ=カサーレスは、カステル総督はじめ悪魔島の囚人達の体験を通して描いているのであり、そのことは人間にとって現実とは何か、という問いにつながっていく。
仮想現実の中に投げ込まれた人間が、自分が見ている世界こそが現実だと思いこみ、現実と仮想現実との区別がつかなくなるという悪夢のような世界を好んで描いたのが、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックである。
ディックはその多くの小説で人間にとって現実世界とは何か、あるいは、人間にとって自分が自分であるということはどういうことであるかというテーマを一貫して追究した作家である。ビオイ=カサーレスの『脱獄計画』のテーマは、後のこのようなSF作品に引き継がれていったのかも知れない。
アーサー・マッケン「パンの大神」(1969,創元推理文庫『怪奇小説傑作集1』英米編Ⅰ)平井呈一訳
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