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山尾悠子『山尾悠子作品集成』(15)

2015年09月02日 | ゴシック論

 アレホ・カルペンティエール(1904-1980)はキューバの作家であるが、フランス人の父親とロシア人の母親を持つ生粋のヨーロッパ人である。ラテンアメリカ文学の旗手とも言われた作家だが、代表作『失われた足跡』や『光の世紀』などは極めてヨーロッパ的な作品で、ラテンアメリカの土俗性をまったく感じさせない。
 しかし、初期の作品『この世の王国』は18世紀末ハイチの黒人奴隷による反乱を描いて、いわゆる"魔術的リアリズム"の典型的な作品とみなされている。そして『時との戦い』におさめられた「種への旅」は『この世の王国』よりも前に書かれた作品で、やはり土俗的な魔術に対する強い共感を背景にしている。
 ところでこの「種への旅」こそが時間の逆行を描こうとした作品なのである。この作品はドン・マルシアルという侯爵家の当主の館を取り壊す場面から始まるのだが、時間の逆行は黒人の魔術によって引き起こされる。
「そのときである。そこを立ち去らずにいたニグロの老人が奇妙なしぐさをした。舗石の墓地の上で、杖をひと振りしたのだ」
 この黒人の魔術決行の後、ひたすら時間は逆行していく。次のように。
「白や黒の四角い大理石が床めがけて飛んでゆき、字面を隠した。石も又確かな狙いをつけて飛び、壁の穴を埋めた。飾り鋲のついたくるみ材の板がぴたりと枠におさまり、蝶番のねじはすばやく回転して、ふたたび穴にもぐり込んだ」
 こうして主人公マルシアスは死の床から目覚め、どんどん若返っていって、青年時代、少年時代、幼年時代へと遡行していく。マルシアルは胎児となり、さらに受精卵となり、種へと帰っていく。さらに館自体も原初への旅を続ける。
「一隻の二本マストの帆船がいずくからともなく現われて、床や噴水の大理石を急ぎイタリアへ運び去った。武器や蹄鉄、鍵や銅鍋、馬銜などは溶けて金属の太い流れとなり、屋根のない回廊を伝って地面へ向かった。すべてが姿を変えて、原初の状態に戻った。土は土に帰り、館は消えて荒れ地だけが残った」
 ビデオの巻き戻しのようなこうしたシーンはしかし、徹底されることはない。カルペンティエールが時間をマイナスの方向に誘導しようとしても、どうしても時間がプラスの方向に進行することを妨げるのはむずかしい。たとえば……。
「ある晩、酒を飲みすぎ、友人らの残していった冷えたタバコの臭いで気分の悪くなったマルシアルは、……」
 この文章はあきらかに時間の逆行を描いていない。他にも当然そうした部分はあって、このことはカルペンティエールの作品にある種の不徹底をもたらしている。
 時間の逆行を言葉で描くことが本当に出来るのか? という疑問は提出されてよい。言葉は時間というものと深く関連している。言葉は整序的にしか発声されないという事実を確認しなければならない。
 ビデオの巻き戻しは時間の逆行をなぞることは出来る。しかし、ビデオの音声を巻き戻したら、それは言葉にすらならない。言葉は整序的な時間とともにあるのであり、プラスの方向にしか進み得ない。
 だからカルペンティエールの「種への旅」は無謀な試みであったのであり、不可能を可能とする作品ではなかった。『時との戦い』の訳者・鼓直は巻末で、「種への旅」にならって、カルペンティエールの年譜を現在から生誕へと遡行して書いてみせるが、しかし個々の年次の記述は整序的にしか書かれようがないのである。
 山尾悠子はそうしたことをよく理解していたと思う。

 

アレホ・カルペンティエール『時との戦い』(1977,国書刊行会)鼓直訳

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