玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『夢の遠近法』(5)

2015年03月11日 | ゴシック論
 タイトルの「遠近法」は「《腸詰宇宙》において、人々の視覚は遠近法の魔術によって支配されている」というところから来ている。さらにその遠近法の魔術は、作者が「ジウリオ・ロマーノの手によるマントゥアのテー宮殿の天井画」の写真を見たことによって与えられたテーマであり、山尾はそれを渋澤龍彦の本で知ったという。

ロマーノ〈マントゥアの天井画〉

 円筒形宇宙はその上下方向に向かっては「遠近法の魔術」に支配されているが、水平方向には正常な空間認識が働くようになっている。そして、そこに展開されるのは、無限の層に積み重なった壮麗な石造りの回廊である。
 山尾はそこでもモンス・デジデリオの絵画からインスピレーションを受けていると思われる。回廊を支える人像柱の描写があるが、デジデリオの作品にはどれも夥しい数の人像柱が描かれているのだ。それらが腰のあたりを中心にして上下対称に造られ、そのために鏡像のように見えるというのは山尾の独創である。

デジデリオ〈油釜に投じられた福音書記者聖ヨハネ〉

 山尾のデジデリオへのこだわりは、つまりはゴシック的なものへのこだわりに他ならない。他にもある。自らの着想によるこの「腸詰宇宙」が、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」における“図書館宇宙”と似ていることに驚いたという自作解説には、ゴシック的なものへのこだわりの普遍性についての認識を読み取ることが出来る。

エリック・デマジエール〈バベルの図書館』〉
 さて、「遠近法」には「補遺」があって、そこに次のような一節が書かれている。
「誰かが私に言ったのだ
 世界は言葉でできていると
 太陽と月と欄干と回廊
 昨夜奈落に身を投げた男は
 言葉の世界に墜ちて死んだと」
 山尾によれば男とは“神”のことであるという。また「世界は言葉でできている」よりも「誰かが私に言ったのだ」の方が比重は大きいのだと山尾は言っている。誰が私に言ったのか? 
神でないとすれば誰が? 「世界は言葉でできている」というのはこの小説の内部に関わることなのか、それとも現実の世界に関わることなのか?
 まさかボルヘスが言ったのではあるまい。ではなにがそれを告知したのか? おそらく言葉自身がそこで語ったのに違いない。現実の世界もまた「言葉でできている」のだから。
(この項おわり)


 

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