玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(16)

2015年09月04日 | ゴシック論

 カルペンティエールの「種への旅」はラストの部分で了解されるように、植民地化されたキューバの時間を逆戻りさせ、原初のキューバを取り戻そうという願望に満ちた夢想の物語である。そこに生粋のヨーロッパ人であったカルペンティエールの生まれ育ったキューバに対する深い愛情や、先住民に対する良心を認めることは出来る。しかし、時間を操作する小説として良くできているかといえば、私はそうは思わない。
 山尾悠子の「黒金」は、時間を逆行させようなどという無謀な試みでもなく、ロブ=グリエが「秘密の部屋」で行ったような完全に静止した時間を描こうとしたのでもない。山尾はロブ=グリエの静止した時間を少しずつ遡行することで、時間を重層化させる。十分ないし十五分間隔で時間を遡ることで、静止した時間が多層に重なることになる。
 閉鎖空間である。ロブ=グリエの「秘密の部屋」のように閉鎖された空間である。しかもその部屋は"毛深い部屋"であって、何百匹もの黒貂の毛皮で壁も床も覆い尽くされている。この部屋に人間ではないものを出現させるための伏線である。
 血の描写もロブ=グリエのそれと似てはいるが、この"毛深い部屋"は血痕のありようをより凄惨なものにしている。
「漆黒の、ほとんど青みがかったような深い艶を持つ緞帳に散ったそれらの血痕は、乾きかけている今、毛皮の地色に近く変色して見分けがたくなっている。ただ、その箇所だけ血液の凝固作用に汚され、毛皮の光沢が失われているのでそれと判るのだ。そこを斜めに透かして見れば、光線の当たり加減で、硬ばった毛並の表面に金属的な暗紫色の照りが認められるだろう。」
 こうした執拗な描写こそ、小説の時間を止める最も重要な要諦である。ロブ=グリエの場合は一枚のタブローの細密な描写に止まっているが、山尾は時間を遡行することで、数枚のタブローの描写を可能にする。ある意味、一枚のタブローよりも数枚のタブローの方が、放埒な描写の願望を充足させることが出来るわけだ。
 失神した裸の女の躰がベッドと壁の隙間に倒れ込んでいる。そして、部屋の中にもう一つの存在が描写の進行とともに姿を現す。
「黄色みを帯びた蝋燭の光線の真下、生々しい赤黒さの血のりに浸ったシーツを長々と斜めに覆って、狼、おそらくは灰色狼と呼ばれる種類であろうと思われる人身大の獣が、女の見ている側に腹をむけるかたちに横たわっている」
 黒貂の毛皮で覆われた部屋に姿を現す狼の死体。ロブ=グリエの部屋には人間しか(生きているにせよ死んでいるにせよ)存在しないが、山尾の部屋には途方もないものが(生きているにせよ死んでいるにせよ)出現するのである。
 さらに、狼の「咽喉もとから股間部にかけて」「縦一直線の長い裂け目」があり、そこから少年の上半身が飛び出しているのである。
「少年の身体は、その狼の腹の裂け目から上半身だけを外に乗りだしたかたちで、上体をひねるようにシーツの血溜に浸っている。眼を閉じ、唇をうすく開いて、片頬をシーツの血の中に埋め込んだその顔に苦悶の表情はないが、おそらく窒息したために死んでいる」
 少年の出現は狼のそれよりも遙かに奇態なものと言わなければならない。山尾悠子の幻想世界はいつでも絵画のように静止状態にあり、そのためもあっていつでも美しいのであるが、「黒金」だけは凄惨でグロテスクな例外をなしている。
 ロブ=グリエの短い作品に触発されて、しかもロブ=グリエ以上の傑作を書くことが出来た山尾悠子の想像力に感嘆せずにはいられない。

 

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