玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

鈴木創士『分身入門』(5)

2022年01月17日 | 読書ノート

 第Ⅱ部は「イマージュ、分身」と題され、そこにはもっぱら映画と音楽についてのエッセイが収められている。その中の「映画、分身」という一編は、映画と演劇の違いについて語っているが、「演劇の仕種は行為であり、映画の仕種はイマージュである」という一文からも分かるように、鈴木は映画こそがイマージュの芸術であるということを言っている。
 演劇では生身の肉体がそこにあるが、映画にはそれがない。あるのはイマージュであり、分身そのものである。当たり前のことだが、鈴木が演劇よりも映画を好む理由がそこにある。演劇ではまったく同じ動作が繰り返されることはないが、映画ではまったく同じ動作が分身達によって永遠に繰り返されていく。そのことを鈴木は次のようにまとめている。
 
「映画は何度も上映され、彼らは同じ動作を永遠に繰り返すだろう」
「同じ動作、分身の動作が繰り返される」
 
 では音楽はどうなのか。鈴木自身EP-4というバンドのキーボード奏者として活動していたことがあり、彼の場合音楽に対する親和性の方がおそらく強いのだ。私にも馴染みのヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてのエッセイが二本ある。いずれも2013年に亡くなったルー・リードを追悼する雑誌の追悼特集に寄せた文章だが、実は彼はルー・リードのことを追悼などしていないし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのことも追悼しているわけではない。
 鈴木はルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンド以降のソロ活動について、まったく評価していない。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードだけがルー・リードなのであって、それ以降のルー・リードはルー・リードではないと言わんばかりなのだが、私もそう思う。ルー・リードのソロの曲で聴くに値する曲が存在するだろうか? Walk on the Wild SideやPerfect Dayを、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代のHeroinやVenus in Furs、あるいはSister Rayと比較することなど誰に許されようか。ルー・リードはとっくの昔に死んでいるのだから、鈴木にとって追悼する対象ではなかったのである。
 ならばヴェルヴェット・アンダーグラウンドはどうなのか。それは生きている。現在も生きているし、将来も生き続けるだろう。とりわけVelvet Underground & NicoとWhite light/White heatの二枚のアルバムにおいて。だから鈴木はヴェルヴェット・アンダーグラウンドを追悼することもない。それが今も生きているからである。
 鈴木のヴェルヴェット・アンダーグラウンド論で、もっとも気に入った一節を引用しておこう。今回引用が長くなりがちなのは、彼の文章が論理的かどうかは別として、極めて美しいからであり、それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドについての文章でとりわけ際立ったものになっている。

「ヴェルヴェット・ アンダーグラウンドの音の中心はいたるところにあって、点線でできた茫洋たる円周はどこにもなく、ある意味では中心などというものはこちら側にもあちら側にもなく、音の行方が不在であるという意味において、完全な不在のなかで決定的に宙に浮いたままである。
 当時のロックンロールの歴史においてヴェルヴェット・ アンダーグラウンドだけがこの高度に離人症的感覚を持ち得たということは、どうでもいいことなどではなかったのだ。たとえばろぼろのビロードを纏った肉体が、ヘロインの注射器が血管を求めるあまり、からだじゅうから一瞬だけ天罰のように消えてしまったみたいな静脈のなかをすでに駆け巡っている苦悩に、それともマゾッホの主人公たちがこうむったようなひどい苦痛にすでに冒されていたとしてもである!」

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿