玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(3)

2017年11月27日 | 読書ノート

 いずれにしてもヘンリー・ジェイムズの作品を道徳論的に読むことは、一時も早くやめなければならない。日本の研究者たちもアメリカの批評家たちの議論の影響下にあるらしいから、百害あって一利なしである。
 青木次生によればこのような読み方は、第二次世界大戦後に盛んになったジェイムズ研究において、「戦後世界の復興に大きく貢献しつつあったアメリカ人の、アメリカの軍事力のみならず、アメリカの民主主義、道徳観、ひいては生活全般についての自信」の反映だという。
 だからこのような読み方は、世界の正義を標榜するアメリカ人の思い上がりから来るのであり、ヘンリー・ジェイムズがそのような考えをもっていたとは到底考えられない。
 最初に私は心理小説の図式的構造ということを言ったが、その図式性とは「アメリカの無垢がヨーロッパの退廃を救う」などというところにあるのではない。そうではなく、人間関係の図式的配置こそが心理小説の大きな特徴だということを私は言いたかったのである。
 心理小説の多くは家庭内小説としての性格をもっている。ラブロマンスというよりはファミリーロマンスなのであって、そこに不倫ということが絡んでくると、そのファミリーが崩壊の危機に瀕することになる。不倫という恋愛関係は家庭に亀裂を走らせる最も大きな要因であるからである。
 そして本家フランスの心理小説のほとんどは不倫ということを主要なテーマとしているし、そこには三角関係という図式的構図が成立する。これが最も単純な危機的人間関係の構図であって、心理小説はそこにこそ拘って展開されていくのである。
 心理小説が精緻な心理分析によって特徴づけられるとすれば、それ以上に人間関係の配置を複雑にすることはむずかしい。配置を複雑にすればするほど、個々の登場人物の心理分析に与えられる時間が少なくなってしまうからである。
 ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』には、フランスの心理小説と違って、不倫の要素は入ってこなかった。しかしそこには、求婚者と被求婚者、そしてそれに反対し介入する父親という三角形の構図があり、これもまた家庭劇であらざるを得なかった。
『金色の盃』は不倫をテーマにした小説であり、本家フランスの心理小説に近いものがあるが、しかしそこに現出するのは三角関係ではなくて四角関係である。たぶんヘンリー・ジェイムズは、これ以上はできないぎりぎりの所まで人間関係の配置を複雑化させることに挑戦したのである。
『金色の盃』は後期三部作の中で最も長い作品であるが、この作品を長くしているのは、それが『鳩の翼』や『使者たち』における三角関係よりも複雑であり、心理分析により多くのページを割く必要があったからだと思われる。
 心理小説は危機をめぐる人間関係のドラマを、三角関係あるいは四角関係に配置された力学的関係の場において描くものである。三者あるいは四者は、力学的な引力あるいは斥力の働く場に置かれ、その関係のあり方が時々刻々に変化していく、その過程を描くことを使命とする。
 だから図式的構図というものは心理小説にあっては避けられない構造なのであって、それを否定したのでは心理小説そのものが成り立たないことになる。レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』が「幾何学の軌跡のような美しい線」を評価されたのも、そのスタティックな構図によっている。
 また心理小説がある意味で抽象的な構築物であるような印象を与えるのも、それが必然化する図式的構図によっているのだと言うべきだろう。

 


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