先月29日の衆議院本会議で、立憲民主党の枝野幸男代表は安倍首相の所信表明に対する質問の中で、次のように述べたという。
また、同月30日の参議院本会議で、同じ立憲民主党の吉川沙織議員は、やはり安倍首相の所信表明に対する質問の中で、同様の発言をしている。
確かに、安倍首相は同月24日の所信表明演説で、次のように述べたという。
憲法は国家権力を国民が縛るためのもの。
これは、何も今にはじまったことではなく、従来からの枝野氏や立憲民主党の主張である。
そして、憲法というものの由来を考えると、それは正しいと私も思う。
しかし、憲法を「国の理想を語るもの」と見るのは、「全く誤った憲法理解」なのだろうか。
たまたま吉川氏の発言をテレビで聞いて、私は違和感を覚えた。
アメリカ合衆国憲法の前文はこうなっている(翻訳は駐日米国大使館のアメリカンセンターJAPANのサイトのもの)。
フランスの憲法第1条はこうだ(『世界憲法集』(岩波文庫、2007)から)。
米国やフランスの憲法の起草者たちは、彼らの国はこういう国であるべきだという理想を実現するために、憲法にこのような文言を盛り込んだのではないのだろうか。
日本国憲法の起草者たちは、わが国に国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄という3つの理想を実現させようとしたのではないのだろうか。
彼らは、この国はどうあるべきかという理想には関心がなく、ただひたすら、権力をいかにして縛るかにしか関心がなかったというのだろうか。
そんなはずはない。
憲法は、確かに権力を縛るものである。と同時に、国の理想を示すものでもある。
そういう理解が正しいのではないか。
憲法改正は国民から提案されるべきで、縛られる側である首相が旗を振るのは論外だと枝野氏は言う。同様の主張をしている人もよく見かける。
しかし、その国民の投票行動が、自民党を与党たらしめているのである。
そして、憲法改正の発議権は国民にはない。国会議員にある。
国会議員は政党を結成している。国会は、多数を占めた政党の党首を首相に指名している。
与党内で改憲論が高まれば、党首である首相がその旗振り役となることは当然である。
何もおかしな話ではない。
そもそも、一般に、憲法の制定や改正は、時の権力の主導で行われるものだろう。
米国の憲法は、各州の代表者によって作成、採択された。
フランスの現憲法(第5共和国憲法)は、1958年にドゴール首相が議会優位の第4共和国を政府優位に改めるため制定したものだ。
わが国の現憲法が誰によって起草されたかは説明するまでもない。
いったい、どこの国の憲法が「草の根からの民主主義のプロセス」で制定されたり改正されたことがあるというのか、私は「論外」と唱える人々に尋ねてみたい。
枝野氏はそもそも改憲論者だったはずである。
かつての民主党、その後身である民進党にこうした人物がいることを私は心強く思ってきた。
それは、私が古くからの改憲論者であり、改憲実現のためには、自民党だけではなく、もう一つの大政党の賛成が是非とも必要であると考えていたからだ。それでこそ国民の大多数が支持できる改憲となり得る。
かつて社会党が野党第1党だった時代にはそれは不可能だった。しかし、民主党や民進党はそんなゴリゴリの護憲政党ではない――はずだった。
だが、「立憲主義」を看板に掲げてからの枝野氏は、憲法を政争の具としているように見えてならない。
こんなことでは、もはや私の目の黒いうちに改憲が実現することはないのかもしれない。
総理は所信表明で「国の理想を語るものは憲法」とおっしゃいました。
しかし、憲法は、総理の理想を実現するための手段ではありません。憲法の本質は、理想を語るものでもありません。確かに形式的意味の憲法に理想を語っているとも読めるプログラム規定が含まれることはありますが、憲法の本質は、国民の生活を守るために、国家権力を縛ることにこそあります。
総理の勘違いは今に始まったことではありませんが、ここでもう一度、申し上げます。総理、憲法とは何か、一から学び直してください。「国家権力の正当性の根拠は憲法にあり、あらゆる権力は憲法によって制約、拘束される」という立憲主義を守り回復することが、近代国家なら当然の前提です。憲法に関する議論は、立憲主義をより深化・徹底する観点から進められなければなりません。憲法を改定することがあるとすれば、国民がその必要性を感じ、議論し、提案する。草の根からの民主主義のプロセスを踏まえて進められるべきであり、縛られる側の中心にいる総理大臣が先頭に立って旗を振るのは論外です。
また、同月30日の参議院本会議で、同じ立憲民主党の吉川沙織議員は、やはり安倍首相の所信表明に対する質問の中で、同様の発言をしている。
憲法とは、権力者の恣意的な行動を抑制する「縛り」として制定されたものです。総理は、所信表明で、「憲法とは国の理想を示すもの」と全く誤った憲法理解を示しています。
確かに、安倍首相は同月24日の所信表明演説で、次のように述べたという。
来年、トランプ大統領、プーチン大統領、習近平主席をはじめ世界のリーダーたちを招き、日本が初めて議長国となり、G20大阪サミットを開催します。その翌年には、東京オリンピック・パラリンピック。世界中の注目が日本に集まります。
歴史的な皇位継承まで、残り、半年余りとなりました。国民がこぞって寿(ことほ)ぎ、世界の人々から祝福されるよう、内閣を挙げて準備を進めてまいります。
まさに歴史の転換点にあって、平成の、その先の時代に向かって、日本の新たな国創りを、皆さん、共に、進めていこうではありませんか。
国の理想を語るものは憲法です。憲法審査会において、政党が具体的な改正案を示すことで、国民の皆様の理解を深める努力を重ねていく。そうした中から、与党、野党といった政治的立場を超え、できるだけ幅広い合意が得られると確信しています。
そのあるべき姿を最終的に決めるのは、国民の皆様です。制定から七十年以上を経た今、国民の皆様と共に議論を深め、私たち国会議員の責任を、共に、果たしていこうではありませんか。
憲法は国家権力を国民が縛るためのもの。
これは、何も今にはじまったことではなく、従来からの枝野氏や立憲民主党の主張である。
そして、憲法というものの由来を考えると、それは正しいと私も思う。
しかし、憲法を「国の理想を語るもの」と見るのは、「全く誤った憲法理解」なのだろうか。
たまたま吉川氏の発言をテレビで聞いて、私は違和感を覚えた。
アメリカ合衆国憲法の前文はこうなっている(翻訳は駐日米国大使館のアメリカンセンターJAPANのサイトのもの)。
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。
フランスの憲法第1条はこうだ(『世界憲法集』(岩波文庫、2007)から)。
フランスは、不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出自、人種あるいは宗教の区別なく、すべての市民の法の前の平等を保障する。フランスは、あらゆる信条を尊重する。フランスは、地方分権的に組織される。
米国やフランスの憲法の起草者たちは、彼らの国はこういう国であるべきだという理想を実現するために、憲法にこのような文言を盛り込んだのではないのだろうか。
日本国憲法の起草者たちは、わが国に国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄という3つの理想を実現させようとしたのではないのだろうか。
彼らは、この国はどうあるべきかという理想には関心がなく、ただひたすら、権力をいかにして縛るかにしか関心がなかったというのだろうか。
そんなはずはない。
憲法は、確かに権力を縛るものである。と同時に、国の理想を示すものでもある。
そういう理解が正しいのではないか。
憲法改正は国民から提案されるべきで、縛られる側である首相が旗を振るのは論外だと枝野氏は言う。同様の主張をしている人もよく見かける。
しかし、その国民の投票行動が、自民党を与党たらしめているのである。
そして、憲法改正の発議権は国民にはない。国会議員にある。
国会議員は政党を結成している。国会は、多数を占めた政党の党首を首相に指名している。
与党内で改憲論が高まれば、党首である首相がその旗振り役となることは当然である。
何もおかしな話ではない。
そもそも、一般に、憲法の制定や改正は、時の権力の主導で行われるものだろう。
米国の憲法は、各州の代表者によって作成、採択された。
フランスの現憲法(第5共和国憲法)は、1958年にドゴール首相が議会優位の第4共和国を政府優位に改めるため制定したものだ。
わが国の現憲法が誰によって起草されたかは説明するまでもない。
いったい、どこの国の憲法が「草の根からの民主主義のプロセス」で制定されたり改正されたことがあるというのか、私は「論外」と唱える人々に尋ねてみたい。
枝野氏はそもそも改憲論者だったはずである。
かつての民主党、その後身である民進党にこうした人物がいることを私は心強く思ってきた。
それは、私が古くからの改憲論者であり、改憲実現のためには、自民党だけではなく、もう一つの大政党の賛成が是非とも必要であると考えていたからだ。それでこそ国民の大多数が支持できる改憲となり得る。
かつて社会党が野党第1党だった時代にはそれは不可能だった。しかし、民主党や民進党はそんなゴリゴリの護憲政党ではない――はずだった。
だが、「立憲主義」を看板に掲げてからの枝野氏は、憲法を政争の具としているように見えてならない。
こんなことでは、もはや私の目の黒いうちに改憲が実現することはないのかもしれない。