民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

寺の社会貢献

2015-07-09 18:05:34 | その他

 父の墓がある寺(菩提寺などとカッコいいこといいません)では、今年になって冊子のようなものをよく送ってきます。本堂改築のために多額の寄付を強いているため、檀家の不満が噴出しないようにということでしょう。ところが、送ってくるものと言ったら行事案内や護寺会費の振込通知だったり、本山で作った旧態依然としたPR誌だったりの物なのです。全く読む気にならず、即刻資源ごみとなります。いったい自分の寺をどのようなコンセプトで運営しようとしているのか、寺を守る住職としての哲学がまったくわかりません。施餓鬼供養を5000円でするというお知らせと申し込みハガキが来ましたが、申し込みをする気はありません。盆には私が供養すれば十分です。改築の寄付は父が選んで購入した墓地のある寺だから、そして父の残したお金があるからするのであって、自分のお金を出さねばならないとしたら拒否します。お金を拠出する意味を感じられないからです。

  調査で世話になった神宮寺から冊子が届きました。こちらは一冊の中に住職の思いがつまっています。住職の高橋さんの個人雑誌といってもよいものです。上野千鶴子なんかも書いていますが。今年の盆の法要では、アウシュビッツについて、研究者を招いた講演と対談をおこなうといいます。「絶対非戦」のために。こちらには気持ちがあればということで一口1万で寄付を募っていました。志に共感しましたから、何かの役に立てばと応じました。寺は人々のためにあるわけで、そうでなかったらつぶれてしまえばいいですし、つぶれると思います。


民俗学の社会貢献

2015-07-09 06:05:35 | 民俗学

何年か前の民俗学会の年会の研究発表をきいてから交流している中国からの留学生が送ってくれてあった、昨年の年会のレジュメや資料に目を通しました。そして、民俗学の社会貢献に関する発表がいくつかあることに、感慨を覚えました。今から40数年前、フィールド調査に出たくて入ったサークルは説話文学研究会でした。昔話の調査に中国地方へでかけたのですが、私の興味は昔話に限らずもっと広いものでした。話者の話したい事をまずは聞くべきではないかと考えていました。詳しいいきさつは今となっては忘れましたが、ある日の報告会で地元では編纂中の町史への協力を求めているが、自分たちの目的とは合致しないから協力しないといったような話でしたか、顧問の教授から話がありました。私は、学問なんてものにそんなに固執していいのか、調査される側の期待にこたえるべきではないか、というような反論をし、こんなところにはいられないと席を立ちました。

全く青かったと思います。あの時の教授とは今は交流しています。そして、民俗学の社会貢献に対する自分の変化を改めて思います。今はむしろ、安易に社会貢献に走らず、むしろ学問の世界を守るべきだと、あのころF先生がおそらく考えていたことと同じようなことを考えています。年をとったということと、民俗学という従来の枠組みに飼いならされたということもあるのでしょう。行政の求める方向にすり寄らないことが学問にとって必要なことと今は思うのですが、民俗学に手を突っ込み始めたころ感じていた、話者の思いに共感してその願いがかなうように手助けするのが本当の学問の姿ではないかと感じていた自分とのギャップをどう説明したらいいのでしょうか。

世界遺産の指定なんてものは、完全なる行政の道具であることは、今回の近代化遺産の指定ではっきりしました。年会で担当者の発表できいたとおり、何年か長崎の教会群と隠れキリシタンの指定ということで動いていたはずです。それが政府の思惑でひっくりかえり、松下村塾まで含めて指定されていくのは腑に落ちないことです。所詮学問なんてものは無力だと感じさせられます。無力だからこそ、意識的に社会貢献を考えなければいけないのかもしれませんが。