民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

石牟礼道子『アニマの鳥』読了

2019-01-30 14:08:55 | 読書

病のために、遠からざる日に身体の移動が困難になるとわかっている妻は、今のうちにできるだけ遠くの行きたい場所に行っておきたいと思っています。そして、冬は暖かい場所がいいとも。そこで来月は2度目の九州への旅行を計画しています。去年は西南の役の激戦地を見ました。今年は、島原の乱の激戦地を見に行きます。原城です。いつか新聞の日曜版で特集があり、城に籠った何万ものキリシタンがなで切りにされ、今もその地を掘れば白骨が出土するとあり、一度はこの目で見たいと思っていました。

西南の役と島原の乱、そして水俣病を重ねれば、石牟礼道子の仕事にたどりつくのです。『アニマの鳥』は当初「春の城」と題して、九州の地方新聞に連載されたものといいます。そして、その想を得たのは、東京のチッソ本社前に水俣病患者の皆様と一緒に籠城している時だったといいます。幕府という巨大な権力にはむかう物語を、チッソという巨大企業に徒手空拳で対峙する時構想するというのは、何という作家の想像力でしょうか。石牟礼道子の代表作、『苦海浄土』・『西南の役伝説』・『アニマの鳥(春の城)』に貫くテーマは、巨大権力にあらがうただの人の、時に哀惜を伴う生きざまではないかと思います。

教員となったばかりの春、授業準備もしないで空き時間には『椿の海の記』を読みふけっていました。何だかそこには、これから入っていく世の中というものの底にある美しさや悲しみがあるように感じたものです。

石牟礼道子の作品は、まるで民俗誌か巫女の祝詞かと思わされます。『アニマの鳥』から少し引きます。

「さきほど庭先から引き抜いておいたスベリヒュを、選り分けにかかった。野草の一種で日でりに強い。茹でれば淡い桃色のねばりけのある汁が出るけれども、味噌で和えれば美味である。手をかけて植えなくとも、庭であろうが畑であろうが野放図に散りひろがって成長し、畑の青物がなくなる頃に重宝する。」

「雨期に入れば、ただ一日の差で、刈り入れた家とそうでない家とは明暗が分かれてしまう。麦は未熟だと穂の落ちがよくない上に、悪くすると黴が来る。完熟のためには一日でも長く畑に置きたい。一方、雨に濡らさないためには、少々未熟でも好天のうちに早刈りする工夫も必要で、その兼ね合いがむずかしい。濡れた麦を倉に収納すると、間違いなく黴が来る。」

こういう文章は、実際の生活を細かく知らないと書けません。細かな日常にこだわることで、権力に相対する。石牟礼さんの生き方と、その作品とはパラレルな関係にありました。


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