民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

生前退位

2016-12-26 15:11:56 | 民俗学

 生前退位について有識者会議なるものの意見が出そろい、特別立法でという方向になりそうである。有識者会議という「有識者」を誰にするかは現政権(行政)が任命するものであるから、これが政権の考える方向なのだろう。最近は第3者委員会なるものを恣意的に組織して、あたかも客観的な結論であるかのごとき体裁をとって、都合の良い結論を導くのが行政の常とう手段である。退位を認めることを現天皇の思いに応える特別なもので、恒久的には退位は認めないというのが、保守論者の共通見解のようである。その理由は、天皇制が不安定なものになる・天皇は国事行為と宮中祭祀が仕事であるから、自分で勝手に仕事を拡大しておいてそれができなくなったから退位するんどというのはおかしい・天皇は何もしなくて在るだけで尊い存在なのだから・宮中祭祀がその仕事、国事行為はできなければ他の皇族がかわればいい、等である。

 確かに現天皇が国民と共にあろうとし象徴天皇のあるべき姿を模索するうち、自らの仕事を拡大してきたのは事実である。だから、できないなら、それをやめて最小限度の仕事に限ればいい、天皇は存在するだけで絶対的な存在だというのは、天皇制の本質を理解しない発言である。天皇とは本来神の声を民に伝える器としてあった。神の声を聴くという職能にふさわしい者がなるべき役割である。そうした適性がないならば、そうした修練を積まなければならないのだ。だから、血筋で天皇となり在るだけで尊いなどとはいえない。そのことを一番わかっているのは現天皇だと思われる。神がかりする力は誰にもあるわけではない。熱心に祭祀に取り組むのとは、また別次元の話である。そこで、ナカツスメラミコトとしてではなく象徴としての天皇になろうと努めたのである。それが、膝をついての被災者などとの対話となった。誠心誠意、象徴となろうと努めて今の天皇がある。自分が神ではなく、存在するだけで尊いなどとはいえないことはご自身が一番承知されているいるだろう。にもかかわらず、保守論者は戦前の天皇に戻して神の声も聞けない者を神にしようとしている。

 もう十分に頑張りました。天皇さんにはゆっくり休んでいただきたい。


網野善彦に寄せて

2016-12-26 13:58:52 | 読書

『無縁・公界・楽』という本を準備していた頃に網野さんがいだいていた基本的なモチーフを、私は自分のやり方で、おおよそつぎのように理解している。人間の本質をつくっているのは自由な意志であり、それが人間と動物を分けている(この点は平泉澄の出発点と同じである)。自由であるということは、言語や法の体系を自然とはまったく違うやり方で、自ら構成できるという意味をもっている。すると構造主義が言うように、言語も法も恣意的な体系としてつくられ、それが今度は人間を拘束する力をもつようになる。自然が決定しているものから自由でいられる能力が、逆に自由な人間の本質を否定するようになるわけだ。
 そのとき人間の中に、さらに根源的な自由を求める欲望が発生するのである(このことは平泉澄のような人がまったく思いもつかなかったことである)。人間は自然の決定するものから自由であることによって、言語や法や社会的規則の体系をつくりあげ、その体系の高速にしたがって生きるようになった。そのとき同時に、人間の中にはそうした規則の体系を乗り越え、否定していこうとする新しい欲望が生まれる。 中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』

 久しぶりに本の世界に引きずり込まれ、読み通してしまいました。中沢新一が書いた網野善彦評伝といえば、それだけで面白そうだと思えるのですが、そこにオジ‐オイという血縁関係の思い入れが入ってきますので、勢いペンは走り話は具体をおびてきます。この本をよみつつ思ったのは、小熊英二が父について書いた本を読んだ時にも感じたのですが、頭のいい人はどうしてこんなにも小さい時からの記憶が確かなのだろうということです。5歳で初めて叔父となる人に会った中沢少年の記憶が、風景にいたるまで鮮やかなのです。こんな叔父がいたら、こんな甥がいたら話ははずんだことだろうと私にも想像できます。また、中沢少年の知性を育んだ中沢家の知の系譜にも驚きました。さもありなんといわせる環境で、強靭な知性は磨かれるのだと思わされたのです。

 網野さんのアジール論の形成過程がよくわかります。そして、網野さんが「自由」についていかに深く考えていたかが、中沢新一との交流の中から浮かび上がります。そして考えました。最近、学校関係の話題で「いじめ」「教職員の不祥事」が毎日というほどとりあげられます。対応といえば、謝罪・研修と決まっています。同じことの繰り返し。私は「いじめ」「教職員の不祥事」に「不登校」を加えて、学校における「自由」の問題をからめて議論すべきだと思います。強く拘束すれば問題はなくなるのか。教職員を規律で縛れば問題はなくなるか、問題行動を規則で縛ればいじめはなくなるのか。人が根源的もっている「自由」を渇望する欲望を抑え込もうとするのが学校という近代以降のシステムでしょうが、それが疲弊しているのではないでしょうか。 当たりまえのように飼いならしたつもりの、「自由」とその前提となる見た目の「平和」がひっくり返されて、底にある根源的な無秩序、根源的な自由が表に姿を現してきているのが現代社会ではないでしょうか。だとすれば、中世以来の歴史の転換点に立って、私たちはもう少し世界の現実の深層をみつめなければなりません。