障害学の主張石川 准,倉本 智明明石書店このアイテムの詳細を見る |
☆昨年2007年は、特別支援教育元年。2006年教育基本法改正に伴って、教育関連法規を改正・整備して実現した。近年障害のある子どもの教育をめぐっては、ノーマライゼーションが進展し、本人や保護者の教育に対するニーズに応える教育システムが求められてきた。
☆すでに1980年、世界保健機関(WHO)から「3つの側面(機能障害、能力障害、社会的不利)からとらえる視点」が提案され、個人の能力を最大限に発達させる適切な教育を提供することや不自由さを最小限にする社会環境の整備の大切さはグローバルな動きでもあった。
☆2001年には、WHO総会で「国際生活機能分類(ICF)」が採択され、障害は個人の問題ではなく、適切な教育をする側、不利を最小限にする社会を整備する側の問題でもあるという認識が広がっている。
☆日本の「特別支援教育」もその流れに乗っている。これはたいへんよい活動ではある。ただ、注意すべきは「分類」である。社会のパラダイムが優勝劣敗システムであることが変わらないのに、「分類」されると「レッテル貼り」になる可能性がある。この微細な差異のコミュニケーションの積み重ねが、一人ひとりを大切にする側の論理の同調圧力につながっていく。
☆本書はこの状況を、社会モデルというマクロ的な視点と日々の生活の中でのコミュニケーションというミクロ的な視点の両方から、とらえ返そうとしている。
☆同化し統合することが必ずしも排除を無化することができないという視点。差異化は排除を生みやすいが、その差異を「障害の分類」ではなく、文化的差異としてとらえることによって、排除を無化できる。
☆この問題はしかし、障害という圏内だけの問題ではない。制度としての分類が生み出す排除のシステムの問題なのである。「制度」としてとらえるや、それは社会システムの問題であると同時に、「制度」に制約されている言語によるコミュニケーションの問題でもある。
☆社会システムの改革は必要ではあるが、気が遠くなるような道のりだ。市民が生活の中でできることはコミュニケーションを変えることによって「制度」を変えることだ。
☆自分を変えることができれば世界は変わるとは≪私学の系譜≫に属する教育の思想である。障害学的発想を≪私学の系譜≫が自覚すれば、新しい社会への道は拓くはずなのだが・・・。