もの・こと・ことば (ちくま学芸文庫)廣松 渉筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
☆議会においても、企業においても、学校においても、友人同士の仲においても、家庭においても、コミュニケーションが凍てついているのがほとんどというのが現在だ。
☆どんなに相手の話を聞く体制を作っても、コーチングをやっても、ファシリテーションをやっても、ピアプレッシャーなんかが生まれてしまう。
☆それは廣松渉に言わせれば簡単だ、物象化というフリーズ・コミュニケーションを氷解する言語モデルを組み立てないからだよ。
☆「意識対象―意識内容―意識作用」なんて近代言語モデルがコミュニケーションのパラダイムである限り、コミュニケーションは物象化・フリーズするのは当然だ。
☆意識対象と意識内容を安定させるためには、つまりマニュアル化する、そうそう知識データベース化する、簡単に言えば知識を覚えるためには、意識作用をゼロ状態にするのがポイント。つまり思考停止。しかしゼロは無ではない。批判的・創造的思考力を抑圧する状態ということなのだ。
☆じゃあ、意識作用のゼロ状態を解除すればよいのか。しないよりかなりマシである。しかし、解除は解除する人に依存する。その門番がいなくなれば、もとの黙阿弥だ。本当は近代言語モデルは「『意識対象―意識内容』-意識作用」という二元論なんだな。だから、ほっとくと、「意識対象―意識内容」だけが二元論図式として物象化・フリーズされちゃうんだ。
☆だから、このモデル自体をぶっ壊さないとということになる。そこで関係主義の面目躍如というわけ。
☆随分古い本だが、宮台真司氏が廣松渉に論文指導を受けていた頃、別の場所で私も廣松渉の本と格闘していた。その中でも本書は座右の銘となっている。
☆クオリティ・コミュニケーションを考える時、本書に立ち返る。私立学校の先生方と授業について話し合うとき、「意識作用」のゼロ状態を無化するおもしろい話が聞けるのは最高。だが、その先生がその学校を去ったら・・・。やはり、近代言語モデルをいかに創造的破壊、あるいは破壊的イノベーションできるのか、それが問題だ。
☆ともかく、言語の視点で、廣松渉を超える論は今のところないだろう。