始まったときはどうなるのか行方知れずだったクリエイションも公演の日を向かえ、楽日の翌日。
アイザック イマニュエルの作品は『風の駅 -行方不明者のキュレーション-』というタイトルで上演された。
アイザックとはリサーチ期間中に太田省吾さんに所縁のある人に話しを聞きたいというきっかけで出会った。風の駅というタイトルはついているけれど、太田さんの同名の作品とはあまり関係なく、オマージュという訳でもない。
白い四角の舞台上、4人のパフォーマーが順番に三脚のついた業務用扇風機を四角それぞれの辺の真ん中に運び、4箇所に設置されたコンセントにプラグを差し、スイッチを入れる。そして吹いてくる風を受けることから発想されたムーブメントを約1分展開させたのち扇風機のスイッチを切る。次のポイントに扇風機を移動させ、スイッチを入れる…という繰り返しで、その途中でレインコートやビニール袋や紙などのモチーフを伴い、やがて扇風機が壊れ、規則変化に変調が起こってくる。
書いてみるとシステマティックでコンセプチュアル。これ面白いんだろうかと思ってしまうけれど、実際なかでやっていた身としては、ひとつひとつのことをこなす上で、有機的な流れのなかにいる感覚が強かった。
見かけはドライでも人や物に触れること、近づくこと、あるいは離れることに感情の手前にある湯気みたいなものが素朴に伴う余地があった。その余白があるために、体に体温が伴っていることと切り離されないものが構造の骨格とは別の仕方で作品を支えていたように思う。出演者のひとりに小学一年生のルイくんという男の子がいたことも大きく作用していた。
ひとつひとつバラバラに発想されたムーブメントであるけれど、それらをパフォーマーが自分でリエゾンさせつつ扱わなければ、規則的に進行するという意味の時間以外の生体の流れが生まれない。私にとってそのリエゾン作業は最も体の在り方を見出せる。血が構成に同期すれば外側で起こることが内面化され、それは姿になる。上演に至る頃、体にテキストが伴う感覚があった。ここでテキストと言っているものは劇中に録音で流れた行方不明者に関するものとはまったく関係なく、ごく私的に発生した読まれることのないもの。でも感覚としては、太田さんの小町風伝で老婆をやったときに近かった。この感覚を誘発することは演出として織り込み済みだったのだろうか。たぶん違う。
でもそれでいてコンセントを抜くとか、スイッチを切るという作業が差し挟まれることが、渦中にいる自分の状態に入り込み過ぎることを許さず、ある種の批評でもあって、そうしたなかで渡る絶妙なバランスがあった。
例えば優れた振付やクレバーな構造があったとしても、そこに何かが宿ったと見えない限り、それは抜け殻で、宿る、宿すということは、受動と能動の間にパフォーマーの心身が結ばれたときにしか起こらない。体が心を伴っていることは無視できないし、体は心の見かけを担う。
でも心を依り代にしたらフォルムはぐずぐずに崩れる。私たちはどうあがいても形であるから、体からでなければ心には触れない。
だからそこ型だけれど、目的は型ではない。
アイザック イマニュエルの作品は『風の駅 -行方不明者のキュレーション-』というタイトルで上演された。
アイザックとはリサーチ期間中に太田省吾さんに所縁のある人に話しを聞きたいというきっかけで出会った。風の駅というタイトルはついているけれど、太田さんの同名の作品とはあまり関係なく、オマージュという訳でもない。
白い四角の舞台上、4人のパフォーマーが順番に三脚のついた業務用扇風機を四角それぞれの辺の真ん中に運び、4箇所に設置されたコンセントにプラグを差し、スイッチを入れる。そして吹いてくる風を受けることから発想されたムーブメントを約1分展開させたのち扇風機のスイッチを切る。次のポイントに扇風機を移動させ、スイッチを入れる…という繰り返しで、その途中でレインコートやビニール袋や紙などのモチーフを伴い、やがて扇風機が壊れ、規則変化に変調が起こってくる。
書いてみるとシステマティックでコンセプチュアル。これ面白いんだろうかと思ってしまうけれど、実際なかでやっていた身としては、ひとつひとつのことをこなす上で、有機的な流れのなかにいる感覚が強かった。
見かけはドライでも人や物に触れること、近づくこと、あるいは離れることに感情の手前にある湯気みたいなものが素朴に伴う余地があった。その余白があるために、体に体温が伴っていることと切り離されないものが構造の骨格とは別の仕方で作品を支えていたように思う。出演者のひとりに小学一年生のルイくんという男の子がいたことも大きく作用していた。
ひとつひとつバラバラに発想されたムーブメントであるけれど、それらをパフォーマーが自分でリエゾンさせつつ扱わなければ、規則的に進行するという意味の時間以外の生体の流れが生まれない。私にとってそのリエゾン作業は最も体の在り方を見出せる。血が構成に同期すれば外側で起こることが内面化され、それは姿になる。上演に至る頃、体にテキストが伴う感覚があった。ここでテキストと言っているものは劇中に録音で流れた行方不明者に関するものとはまったく関係なく、ごく私的に発生した読まれることのないもの。でも感覚としては、太田さんの小町風伝で老婆をやったときに近かった。この感覚を誘発することは演出として織り込み済みだったのだろうか。たぶん違う。
でもそれでいてコンセントを抜くとか、スイッチを切るという作業が差し挟まれることが、渦中にいる自分の状態に入り込み過ぎることを許さず、ある種の批評でもあって、そうしたなかで渡る絶妙なバランスがあった。
例えば優れた振付やクレバーな構造があったとしても、そこに何かが宿ったと見えない限り、それは抜け殻で、宿る、宿すということは、受動と能動の間にパフォーマーの心身が結ばれたときにしか起こらない。体が心を伴っていることは無視できないし、体は心の見かけを担う。
でも心を依り代にしたらフォルムはぐずぐずに崩れる。私たちはどうあがいても形であるから、体からでなければ心には触れない。
だからそこ型だけれど、目的は型ではない。