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流出雑記 

201/4/2

2013年04月02日 | Weblog

どうなんだろ思ってabさんごを読んでみた。
芥川賞のこと、あまり感心をもってないし、受賞することについて云々あるようだがそれはよけておいて、ひらがなを多用して横書きでどのように書かれているのか気になって読んでみたくなった。

ひなた臭い埃をかぶった記憶の家に足を踏み入れて、棚の上などに白くつもったところから丁寧に拾いあげられたかたちが並んでいるという感じがした。ひらがなは意味変換して読ませる漢字より一個一個でつまみ上げることのできるかたちをもっている。と思わされる。 でもばらばらならんでいるようにみえてよことよこはかんけいをむすんでいる、だからよめる。
そのむすびかたがしかけられていて、読むこと、文字を追い、言葉の意味とそのつながりで連なっていくページをめくることが常に意識のかたわらにあるよむだった。

自分と同じストールを巻いている人と何人もすれ違う夢をみた。悩んでやめた色違いを巻いている人ともすれ違った。

朝、ゴミを出す。うちの町内のゴミ収集はだいたい9時半。曲がって使えなくなった傘を一本、取っ手がどうしてもはみだすが、袋に入れて捨てた。京都市のゴミ捨てガイドブックに傘は燃えるゴミに2本までOKとたしか書いてあったから。

2件隣の奥さんが軒先の沈丁花をひとえだ切って家にもって入るところだった。挨拶をする。

はじめてひとり暮らしをした木造アパートの自転車置き場から玄関までの通路は全部白い沈丁花だった。沈丁花をみるとそこに住んだ頃を思い出し、これからも毎年そうなんだろうとも思う。

夫がここの食パンがおいしいらしいと白川製パンの食パンを一斤買ってきてくれた。トーストすると耳が特においしい。

しょうゆ味の平たい卵焼きをはさんだトーストサンドとパンの端の薄いやつにバターをぬって砂糖をまぶして焼いたラスクみたいな甘いトースト夫作の休日お昼。

午後から天気が悪いのは承知の上、ふたりそろって休日だから出掛けようとバイクで南下。疎水沿いから川端へ散り始める前の満開を眺めながら。

市役所前にバイクをとめて、寺町の古着屋やら着物屋、東欧の雑貨など見ながら歩き、夫は3件の家のかたちのブローチ買う。

そのまま寺町を歩いて錦市場に入り、好きな和菓子屋で焼きもちを買っておやつ。夕方上映の映画を見ることにする。四条烏丸の志津やで小腹の為のカルネと小さいビーフカツサンドを買ってcoconの京都シネマへ。

ハネケの『愛 アムール』。

これまでのハネケの映画は万人にすすめられると思えないところがあって、そういうところが好きでもあったけれど、これは例えば親や妹なんかにもすすめられると思う映画だった。というくらい、内容が誰の身にも遠くなく、むしろ誰の身であってもなんらかのかたちでいずれ似た状況を体験することになる内容にストレートに触れたものだった。ハネケの映画をみると、飲み込めない鉛玉が喉に引っかかったままになることがしばしばあったが、この映画はそれとは違って、飲み込めるように作られている。飲み込めるけれど、すぐには溶けないオブラートに包まれている部分があって、おそらく見たものの腑に落ちてから時間をかけて溶け、あかされていくのだろうと思った。幸福な 最後について。  

あとハネケの映画に出てくる食事のシーンがとても好きだ。

帰って夕食も作れなくはない時間ではあるが、遊び歩いて疲れた休日の終わりに食べたくなるもの、それは回転寿司である。

京都に昔からあり、他府県の人からはすこぶる評価の低い某回転寿司。値段は均一で安くて気兼ねないので、いつしか客の半分以上は外国人観光客となった。ガイドブックなんかに紹介されているんだろうなと思われる。わたしたち座った両隣も異国の人で、見ていると大きな男の人が最初に玉子を取った。あとサーモン、まぐろ、鉄火巻きが人気なようだった。

食べようと思うネタの数がそれほど多くなく、どんなものか心得ているので、うっかり取って失敗したりすることなく、間違いない皿を重ねて満足する。何より休日の寿司のよろこびというものを味わっているのだ。