5、6年振りに墓参りに行く。墓地の入り口でお花と線香をもとめると若い方はめずらしいわあと言われる。親としか来たことがなかったので、広い墓地の中なんとなく覚えているあたりを探す。いろんな名字、戦没者のための碑のようなお墓、横には戦死した東南アジアの地名が印されている。それを気にしたり、供えの花のバリエーションなどを見ながら。ホオズキと白いユリと黄色い花、リンドウの組み合わせがかわいかった。蓮の実入りのはぎゅっと密度があって豪華に見える。
墓は案外とあっさり見つかった。
2日ほど前に誰かが来たようで半分枯れた小菊が供えてあった。掃除をし、蝋燭に火を点け午前中と言えど日差しの強い夏空の下で蝋燭の火を見ると、あーこれがお盆の色合いだなと思う。そして蝉の合唱。
あまり良い花は買えなかったがいつか私がどこより素敵な花を供えますと約束をした。
小さい頃は墓参りといえば有無を言わさず連れていかれる行事のひとつだったが、自発的に墓を参るようになってしまった。歳とったなぁ。でも、自分がいま在るに至った経緯には膨大なつながりがあったのだと思うとそのことを確認したくなる。私の血のなかに流れているものにはまだ未知が潜んでいるような、それを起こしてみたいような、私の知る由もない蓄積に支えられていると感じられる時がある。なんだか妙に興奮しながら手を合わせた。
墓は案外とあっさり見つかった。
2日ほど前に誰かが来たようで半分枯れた小菊が供えてあった。掃除をし、蝋燭に火を点け午前中と言えど日差しの強い夏空の下で蝋燭の火を見ると、あーこれがお盆の色合いだなと思う。そして蝉の合唱。
あまり良い花は買えなかったがいつか私がどこより素敵な花を供えますと約束をした。
小さい頃は墓参りといえば有無を言わさず連れていかれる行事のひとつだったが、自発的に墓を参るようになってしまった。歳とったなぁ。でも、自分がいま在るに至った経緯には膨大なつながりがあったのだと思うとそのことを確認したくなる。私の血のなかに流れているものにはまだ未知が潜んでいるような、それを起こしてみたいような、私の知る由もない蓄積に支えられていると感じられる時がある。なんだか妙に興奮しながら手を合わせた。