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流出雑記 

インプロセッションの會 ♯3

2011年04月11日 | Weblog

よく晴れた日曜。

夕方家を出て近所の小学校の投票所で一票投じたのち出町かぜのねへ。

鴨川の三角州には花見の人がたくさん。それを対岸から眺めながらファミマの梅、野沢菜、しらす入りおこわのおにぎりをかじる。足元には植込みを覗きこんで何かを凝視しているサビ柄の猫。サビの子を見ると、どうしても小豆を思い出してかわいさが割増しされる。おにぎりの中からしらすを3匹つまみ出してあげてみたが食べなかった。

インプロセッションの會、3回目。

月一でやっている。先月は暖房をしっかり効かせないと寒かったが今日はいらない。
セッションを始めるまでじっくり体をほぐしたりできるよう、いつもより長めに場所を借りてみた。

この日の参加者は8人。

セッションの場にいるということは、アクティングエリアで何かしているときも、見ているときも、その場に関わることになる。場を共有し、ある状態からまた別の状態への移行を渡っていくなかで、例えば、セッションを見ながらこういう音を投げ込みたいと思えば持っている携帯で動画サイトを検索して音を出しても良いわけだ。もちろんその音は発せられた瞬間に空間を構成する一要素になるので、いくらでも取り出せるなかから選択しなければならないし、その音を発する責任も負うことになる。と書くと堅苦しいが、水にインクを落とすように、自分が投入した色の広がりやそれが混ざっていく様子、そこからまた別の反応が起こったりするのを見ること、そこにある体との関わりを感じることが出来ればよいと思う。

 

公演としてパフォーマーがショーイングし、観客がそれを見るときにも、観客の視線というのは作品に関わるものであるといえるが、セッションの場での見るということはそれより能動性を帯びた位置の「見る」である。つまり見て、そのことから動いた思考を体に、声に、動作に反映させて良いし、セッションの場はそれを望んでいる。どのような、誰の選択も受容する、そうやって様々にかたちの変わる時間を渡ること。踊りながら、他者の存在無しにはあぶりだすことのできない「私」というものがあるとあらためて感じる。それは日常的な人との関わりにおいても思うが、社会的囚われを取っ払ってよい場に体を持ち寄って人と出会い、波風立てても足引っ張っても出る杭になっても良い体になるとき、芽が吹いてくるようなおもしろさを感じる。

様々な人が立ち止まったり吹き抜けたりするなかで場が育つのを見ていたいと思う。