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流出雑記 

2016/7/3

2016年07月04日 | Weblog
晴れ
奈良で仕事。

野火を読みきったその反射で、飢えもせず、平坦な戦場で私たちが生きながら見る風景や口にするものから、何を捉えることができるだろうか、というようなことを思う。
ある時代の、事情による、特殊な、危機的状況、その実体験から見つめられ煮詰められた人の言葉の創作物。その緻密にならざるを得ないこと、厚みを感じた。
現在地から、別にこれといって特殊でも、危機的状況でもない日々を煮詰めたら何が残るのか、何も!だとしても、この日々から見つめるより方法がない。なんでもないことの中をまさぐる手つきは。コンテンポラリーダンスですか。

2016/7/2

2016年07月03日 | Weblog
暑い
1週間朝通い続けた仕事終わる。
帰ってまた出て母校の劇場で観劇の前にグランディールのパン。

動いている体に動かされるものを見出せない。圧倒的に文字を読むことの方に運動を感じるようになってしまっている受け取り側の問題かも知れないけれど、文字や線の痕跡に込められたものの方がむしろ動的だという感覚がある。ざわつく。自分が見ているものに対して欲望が立って来ず、触る余地のないものを遠巻きに見ていた感覚。だから、作品やダンサーの良し悪しもわからなかった。

2016/7/1

2016年07月01日 | Weblog
晴れ。7月になった。
朝仕事を終えてそのまま図書館で大岡昇平「野火」絶望的状況下での心理描写は映像で見るより書かれたもので読む方がおもしろい部分がある。単に南方の島で死にゆくことの悲壮だけじゃなくて、絶望的状況下で人間が発想し、見ているもの思うこと。記述の能動が生きている絶望風景を読むことで、見えないことが見渡せる。その広大さ。

隣からもらった茄子を味噌炒め晩ご飯食べたあとレイトショーで「クリーピー」
1日はファーストデイで安かった。知らなかったラッキーの得した分をポップコーンに変える。
黒沢清の映画に醸されるふとした不穏な空気の動き。そういう、何か、を撮る。

すごい量に見えるのに上映が終わると消えているポップコーンはフィクションと相性がいい。



2016/6/30

2016年07月01日 | Weblog
なんとか晴れてやっと洗濯。
誕生日翌日はいつも6月の終わり。自発的に7時に目がさめる幸先のいいはじまりの6月の終わり。
午前中仕事、帰って絵と詩を書いて晩ご飯作って映画を見る。
29日に見た「ザ ウォーカー」ワールドトレードセンターを綱渡りで渡る実話をもとにした映画とキム ギドクの「殺されたミンジュ」 悪しきものの根元の見えないことが映画の、演じられるもののなかで露わになっている。実体のない悪が人の生の鬱屈を吸い上げて気付くと息をしている。
30日に見た塚本晋也「野火」。戦時中のレイテ島。ジャングルの緑の色彩のデジタルな明るさ、亡霊のような日本軍。所々劇画タッチのような書き込みの、煮詰まった地獄の楽園色。
大岡昇平の原作を読むことにした。あとこないだ歩いた銀座の物語の花影というの。

2016/6/28

2016年06月29日 | Weblog
曇り

曇りの方がいい写真が撮れる気がする。
いい動きや構図を持っているものが、毎日通る見飽きた道にも実は見つかる見ようとすれば。何にもないようなものが踊っている。踊っていないようなものがむしろ。そのように世界を見るときに私は踊らされる。




2016/6/21

2016年06月21日 | Weblog
午後は雨だと思っていたら降らなかった。おかげで洗濯物が乾いた。湿度が高い。

皆いわゆるまっとうな善人では全然ないんだけれど、言動にいやなところがなく、けど言うことがおもしろい。大人で、だけど一見あほみたいなことを全力でやり、どんな屑みたいなことからも何かを拾いあげてくる。一緒にいたいと思う人たち。それぞれ違う部分に独特の緩さがあって、ああ人びとはこういう隙に惹かれるんだなと思う。人格の熟することを思う。自分の青さに気付く。私には舞台芸術界の先輩方でもある。という3人と稽古する。具体的に教わることのできないようなスキルにならない技術が散らかっているような時間。

2016/6/19

2016年06月19日 | Weblog


朝から三ノ宮で仕事だったので5時台に起きないといけなかった。こわごわ眠り、目覚ましより5分はやく目覚めた。

朝からやっぱりまだ気分が曇っている。体調ではなくて。
人の死に際してその訃報が内々の段階で、直接的にそのことを言っているのでなくても、内情をある程度把握している者にとって察しのつくようなことをSNSに投稿するふるまいに対していい気分がしない。如何に個人的な恩や思いがあったとしても。こういうことを先んじてする人にどうしても共感できない。
情報が漏れだしたとたんその真偽を知ろうとする人は検索するだろう。けれど公にされていない段階では正確なことは出てこない。仄めかされたものだけが宙に浮き、検索させる。口走るべきではない。なぜ待つことが出来ないのか。

2016/6/18

2016年06月19日 | Weblog
晴れ

どこの家もここぞと洗濯物を干している。朝から半分以上残ってたカフェオレを机とカーペットにこぼす。おかげでホットカーペットを片付ける気力がわいた。
仕事に行って帰り西日のなか白川丸太町から下鴨のビデオ屋に返却に行って帰ると小一時間のサイクリングだった。途中写真を撮ったりしていたせいもある。

訃報を聞いたとき、しばらくは黙していたいと思う。少なくとも情報として知ったことを受け取って言葉が熟すまでは。今は故人と最も苦楽を共にした人たちの静けさを聴き取り、黙された時間に渡すべきだ。然るべき人によってそれが公にされるまでは。私は訃報に対して情弱でいることを選ぶ。弔いを自身のふるまいに転化させたくない。

2016/6/17

2016年06月18日 | Weblog
午前中曇り午後晴れたと思って、用事のあった郵便局と図書館とビデオ屋に行く。
図書館でぱらぱらめくった本に出てきた安西冬衛という詩人の「再び誕生日」という詩がよかった。図書館を出ると雲行きが怪しく道半ばで雨にあう。ビデオ屋にはたどり着けないと思い、バス停で雨宿りをした。通り雨で空は明るかったが雨足は強い。小降りになったの見計らいそのまま帰ったけど濡れた。
帰ったらお腹が空いてまだ5時過ぎだったがもう晩ご飯にした。

書かなきゃいけないものは書いては寝かせ、つまり一度視界と意識から離しまた書く。絵も同じ方法で描く。思ったより時間が過ぎてしまい見ようと思っていた映画が見れなかった。

2016/6/16

2016年06月17日 | Weblog
1日雨

だいたい絵を描いていた。
ヤン ティルセンを久々に聞いたらやっぱりよかった。高校生の頃アメリを見て、映画のことはほとんど覚えていないけれど、音楽がよかったのでサントラを買った。その音楽がヤン ティルセンだった。シンフォニックさとアコーディオンとかトイピアノが混ざる。

夜 ジャジャンクーの四川のうたを見た。
大規模国営工事が衰退して売られるそのまさに過渡期の風景とそこに生きる人々を撮っている。実際の老いた工員の表情、その子供、解体される工場。語るのは俳優で登場人物は虚実入り乱れているけれど、映画は中国の移り変わりをそこで生きて暮らした人々の、映画のために作られたのではない顔と、俳優との作業によって作られた時間のあわいにより鮮明に映し出されている。
何かが終わっていくところが好きだと思った。