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流出雑記 

2016/6/15

2016年06月15日 | Weblog
晴れ

遅ればせながらジュードジオブスキュアが活気づいてきた。ブルドゥパルファムも蕾が見えた。
ディクロアもよく咲いている。

授業で豊橋。いまだに新幹線はうれしい。

早く行って学内の写真を撮る。広い敷地を歩いているとちょっとどうしたのという感じの黒松の大木があったり、校舎と校舎のあいだのゆったりした感じ、野球部の部室近くは散らかっていておもしろい。

授業は良いかんじに終わる。

2016/6/12

2016年06月12日 | Weblog
曇り 夕方から雨らしい

去年買ってきたディクロアが咲き始めた。あじさいの一種。

昨夜ヴィヴィアン マイヤーのドキュメンタリー映画を見た。ヴィヴィアン マイヤーという名の乳母をしていた女性の死後に偶然発見された大量のネガとフィルム。その写真のよさに気付き魅せられた若い男性が、無名の写真家の人生をたどる。
記憶や記録にある種の執着があった女性で、写真以外にも大量の新聞やレシート、細々したものまで捨てずに持っているから、大量の荷物がある。住込みで乳母をしながら転々と暮らし、そのときも自室には誰も入れたがらず頑丈な鍵を付け、窓から隣人に覗かれていると言うこともあった。
生い立ちも複雑で、生涯独身。詳細なことは不明だが男性に触れられることを極度に嫌がった。乳母としては子供を可愛がった。子供からも慕われていたが、時には子供に対する虐待と言えなくもない行為に及ぶこともあったと実際に世話をされていた人が証言する。常にカメラを首から提げている変わり者であると縁のあった人びとは言う。
ただこの人が人物を撮った写真はとてもいい。
証言や写真、本人のポートレートを見ながら、人の姿を撮り続けたこと、撮影行為及びものを捨てない溜め込み魔であったいうことについて考えていた。何かこの人からは人間に内在する表現欲求における生成りのものを感じる。手段が写真であり、彼女の体を通じて表出されるものが現実を通過するために特にあらわになっているものがある。例えばティッシーの隠し撮り写真やヘンリー ダーガーの少女たちの絵のようなフェティシズムによるものとは異なった、生きているものへのまなざしのなかに問いと答えが同時にある。毛皮を着たマダムも、路上生活者の汚れた顔も、子供から老人まで、そして自分の姿。
ヴィヴィアンは人と接することに不器用だったと乳母をしていた家々の人は証言する。
街で突然人にレンズを向けてシャッターを切るということは、了解のない相手の姿を写し取る暴力性を伴う。人を撮ることには相応の勇気が必要で、シャッターを押す本人はそのことを引き受け、現実に交差した予期せぬ遭遇に自らひとつの裂け目となる。写真家の目はそのような開口部として世界に開かれている。一般的な意味での対人が不器用であったというヴィヴィアンにとって、写真を撮ることはもっとも自分らしく誠実な方法で他者と関わる瞬間だったのではないか。病的な内向性を持っている場合でも生き物として生きてあることは体を、つまり私と外界を知覚するこの形を伴っている。
自他を峻別しを知覚する形状を予め与えられている私たちは、それが機能する瞬間に生きている理由を、~になる、とか~をする、ためにというのではない意義をその機能のするさなかに感じることができる。その一点への絶対的な信頼と孤独がこの人の写真にはあるように思う。
そうして生の痕跡が残ってゆくこと。天涯孤独であったヴィヴィアンは、居場所や自分のたどった軌跡や生きたことの蓄積を実感として欲していた部分もあるのだろう。ものを捨てられないとはそういう不安に端を発するものと思われる。

鑑賞者として多様なものの見方を身に付けることは出来るし、学ばれたものに感嘆することも、知的な読み解きにおもしろさを感じることもあるけれど、何より作品を介して表現の生粋に触れたとき喜びを感じ共鳴するものがある。作家と世界とのぎりぎりの接点に像を結ぶものに。

2016/6/10

2016年06月11日 | Weblog
夏日

朝から仕事で宇治。行く途中駅までの自転車で、あるスーパーの裏を通ったら、スーパーの建物の向かいにある商品を一時置く場所兼倉庫みたいな、色とりどりのケースが山積みで裏口から店内に野菜などを運び入れているところの、コンクリートの敷地内の空いているスペースで、移動式のステンレスの台を囲んだ東南アジア系の女性と、何かの障害があるんだろう男性と、おばさんが3人で包丁を持ち玉ねぎを処理していた。それが今日1日でいちばん覚えているシーン。

2016/6/9

2016年06月10日 | Weblog
晴れていたが昼過ぎ雨が急に降りまた晴れ

梅雨どきは特に晴れ間さえあれば洗濯をしたいので、天気予報に意識的になる。
洗濯機が洗ったりすすいだり、働く音を聞いていて、全部手洗いだった時代があったのかとシリアルを食べながら月に何度か届く市民新聞や軽く読める本を読む。

誰だったか詩人が、書きたいものを書ける訳ではなく、書けるものしか書けない。けれど読むものを選ぶ自由がある。というようなことを書いていて、確かにそうだと思った。読んだものが即自分の語彙になるわけではないけれど、言葉の選択やひとつの事柄を言うのにどれくらいの言葉を費やすか、スピード感や密度、語り口、そういうものの集積が自分の文体を構成していく。
というのは確かだと思う。
最近写真を撮っているけれど、それと同様なことが写真にもある。何に目を向けるか、視線の方向と切り取り方の多様さは人の目から教わった。昨夜、東松照明やアラーキーの写真集を改めて眺めていて、私は特にアラーキーの撮る都市や街がとても好きだと思った。いろんなものを撮る人だし、くどくてあんまり見ていられないものもあるけれど、アラーキーに撮られた都市や街の澄んでいること。そこにある音や声やにおいから切り離された、ただただ写真である像の持つ力がある。写っているもののおもしろさに加担したり助長するようにシャッターを切っているのではなくて、あるものをあるがままに撮っているのに、写真でしかできないことをやるのはこういうことだと思わせられる説得力がある。何というか、撮り手の作為が写り込んでいない。もちろんアングルから何から選び抜かれ、またその選び抜いたことさえも検証されているはずで、撮るという作為以外の何物でもないはずなのに。

2016/6/8

2016年06月08日 | Weblog
雨1日ずっと降ったり止んだり

昨夜思いついたことがあって、そわそわして寝れなかった。

あじさい咲き始める。なんとか青に咲かせようと青色あじさいの肥料をあげ続けて今年はどうかと思っていた八重咲きのあじさいはやはり青には咲かない兆し。たぶん赤みがちな紫。満開になったら去年の写真と比べよう。

沈黙していたジュードジオブスキュアの芽がやっと動きはじめる。うれしい。

夜に思いついたことをやる。

動くときの体の感じが変わっている。前までなかった余裕みたいなものがちょっとある。

2016/6/4

2016年06月04日 | Weblog
晴れ、夜から小雨

天気予報を見ずに洗濯してしまう。
午後から仕事、写真撮りながら行く。昨日借りてきた、甘えの構造、おもしろい。
撮りながら帰る。既にある状態がおもしろいものを撮ってもだいたい良くない。だからってどうにもならないものはやはりどうにも魅力がないし、その狭間に何もないようでいて何かがあるものがあり、それは写真にしないと見えないようなもの。それをらひたすら探している。
足を止めた空き地の横の果物屋で店の主人が誰かと電話で話している。電話の相手は事故をして怪我はないが車の修理費は40万、鹿に当たったらしい。

夕方急に妹が2時間ばかり頼むとおいを、預けにきた。
YouTubeにはアンパンマンのおもちゃを使って遊んでいるところを子供に見せるために作っている動画があり、それなどをエンドレスで流しながら、猫に煮干しをやったり絵を描いたりして遊んだ。うちには子供向けのおもちゃは何もない。おいが目ざとく見つけたのは食器棚にあったかぼちゃやハムスターの形の箸置きだった。それと寝室の私が小1のとき祖父にもらった猫のぬいぐるみを見つけて抱き、それをわんわんと言いながら猫に見せている。祖父もまさかこのぬいぐるみがひ孫の手に抱かれるとは思わなかっただろうし、祖父は25年前に亡くなっているからふたりは実際会うことはないけれど、ぬいぐるみの間にふたりの交流を私は見ていた。
おいは実物の猫はまだちょっと怖いようで、小梅に威嚇されて泣いた。箸置きを皿に盛ったりコップに入れたり水筒に入れたりして勝手に遊びを開発していた。

2016/6/3

2016年06月03日 | Weblog
晴れ 暑すぎず

昨日のボルダリングで昨今稀に見る筋肉痛、瓶のふたも襖も開けられない、と思っていたのに案外平気で胸筋のあたりが痛いくらいだった。

午後本返しに行く。吉岡実がとても好きなことがわかった。
夜露死苦現代詩という本を読んだ。いろんな言葉のありように詩を見いだし紹介している。
面白かったのは、痴呆系という介護施設で看護助手をしながら痴呆老人言ったことを書きとめた本のなかの老人の言葉。
具体の嶋本昭三が中学校で教えていたときに出会った少年の詩。チョークの箱の裏が美しいと書いたのが目にとまったそう。少年は統合失調症であることがわかり卒業後しばらくして精神病院に入り、投薬等の治療をはじめるとぱったり詩を書かなくなったそうで、10代の数年間だけの作品がある。けれどその言葉の暗い冴え。
その他、池袋母子餓死日記の母親の理解を拒む追い詰まりの日記、死刑囚の詩歌、点取りくじのこつぜんとした言葉の数々、などおもしろかった。

ひよこ豆が水に浸けてあったので、牛すじを買ってきて共に煮た。ココナッツミルクを使ったらルンダンみたいな味のものが仕上がった。


2016/6/2

2016年06月03日 | Weblog
晴れ。日差しは温いが肌寒い。

午後から吉本さんと先月からの約束、ボルダリング初体験。

こんなところにというくらい普通の古いビルの中にある。
ボルダリングの靴は指が丸まるくらい小さいのを履くものらしい。それであのカラフルな壁を好きなように登ったらいいものかと思っていたら、全然そうではなく、突起にはそれぞれアルファベットがふってあり、AならAだけGならGだけを使ってスタートからゴールまで到達する、というものだった。だから登り出す前にどの足場をたどって行くかを把握し計画して登らなければならない。記号は壁面に大量にふられているので、探すだけで疲れる。それに登りだしたらどこに次の足場があったかわからなくなり、探していうちに無駄に筋力を使ってしまって壁にへばりついていられなくなる。受付のお兄さんが基本の指導はしてくれる。うまく行ったらナイスですと言ってくれ、必死になってたらガンバですとさりげなく言ってくれるのがうれしい。
そういう訳で腕が昨今稀に見る怠さ。 明日は筋肉痛に違いない。

2016/6/1

2016年06月01日 | Weblog
晴れ だけど先週までの暑さは抜けて長袖じゃないと寒い

心配していたブルドゥパルファムの芽が動いていてうれしい。ジュードにもがんばってもらいたい。

愛知大授業。新幹線。早めに行って学内で写真撮る。
授業。脱力のためのストレッチ、アメーバの体、ゆっくり。後半は課題の歌を作る。
終わってから先生方と食事、いろいろ昨今の展覧会の感想を言い合う。日本酒でほろほろ酔う。光目という魚を揚げたのがおいしい。光目は頭が取ってあったので目がどんなかわからなかったけど、やっぱり眼光鋭いんだろうか。

2016/5/30

2016年05月31日 | Weblog
曇り

通っていた母校の高校の彫刻科、首の仕事が終わる。

詩が変わってきた。いくらでも人の影響を受けられるという何もない強み。意味や韻にとらわれないけれど、一遍である非統合のまとまりを組織したい。去年の夏頃からここに詩のようなものが混ざり始めて、しばらくほっておいたけれど、わけたくなり、詩を書く私をわけてその私に名前をつけてそっちで書いてもらうことにした。
http://mikakosaga.tumblr.com/

毎日あほみたいに写真を撮ってしまうのでメモリがない。パソコンにうつすやり方がわからないので、もういらなそうなアプリを消したり、過去の写真のいらなそうなのを消したり焼け石。

晩ご飯に作っておいたチキンカレーはヨーグルトを水切りしたときに出た乳清を使って作ったからかおいしい。