近藤史恵「サクリファイス」 新潮社
2007年のツール・ド・フランス。あるステージに前回までのツール総合ディレクター、ジャン=マリ・ルブランが現れた。するとレース中の選手たちは四賞ジャージの選手たちを先頭に整列し、彼に敬意を表した(四賞ジャージってのは、その時点での新人賞、ポイント賞、山岳賞、総合の4つの部門でトップの選手が着るジャージ。ツール・ド・フランスでは新人賞は白、ポイント賞は緑、山岳は赤玉、総合は黄色)。
インプレイ中にこのようなことを行う競技はまず他にはあり得ないと思う。
ことさら自転車ロードレースにはルール以外の不文律が多い。他の競技がよくも悪くも勝つための効率を求め、グローバル化しているのに対し、ロードレースは、はなはだヨーロッパ・ローカルのスポーツなのだ。南米やアメリカ、オーストラリアからどんなにいい選手が出ようと、彼らはヨーロッパのローカル・ルールの中で活動しなくてはならない。グラン・ツールの最終日、どんなに僅差でも周回コースまでは競わない、など、どんなに非合理的に思えても、それがサイクル・ロードレースのヨーロッパスタンダードなのである。それに従わなければならない。
サイクル・ロードレースがサッカーや野球、ラグビーに比べて、ヨーロッパ以外ではかなりマイナーな競技である、というのも理由だろう。また、プロチームがチームのバックボーンとして期待できる入場料収入というものがサイクル・ロードレースにはない。スポンサーだけが頼りだ。したがって、たとえそれがルールブックにないからと言って、スポンサーのイメージが悪くなるような行いは厳に慎まなくてはならない。
さらにサイクル・ロードレースを見慣れていない人間にちょっとよくわからないのが、レースは完全にチーム戦略に基づくものだということ。各チームにはエースがいて、他の人間はみな彼のためのアシストになる。エースをのぞくほとんどの選手は、何かのアクシデントがない限り一生表彰台には縁がない(映画「茄子アンダルシアの夏」でペペがステージ優勝できたのは、エースが落車、リタイアしてしまったから)。
エースとアシスト、その関係は絶対だ。1934年のツール・ド・フランス。フランスチームのエース、アントナン・マーニュがパンク、アシストのルネ・ヴィエットは自分も総合3位と優勝圏内にいたにもかかわらず即座に自分の自転車の車輪をエースに差し出し、自らはサポートカーがやってくるまで路傍に座って泣いていたってことがあるくらい。
去年のツールでもヴィノクロフが落車すると、他のアシストたちがいっせいに彼のところへやってきて集団まで引っ張っていった。アシストたちにとって自分の順位は関係ない。エースの順位だけが問題であり、自分たちはタイムアウトにならないようにゴールすればいい。
アシストはエースのための犠牲(サクリファイス)なのか。ぼくは違うと思う。チームのために役割があるだけだ。犠牲は大げさだと思うんだけれどな。
で、ロードレースを描いた近藤史恵「サクリファイス」。ロードレースが舞台という珍しい小説で、なかなか評判がいい。で、読んでみたのだけれど、これはロードレースというものを知らない人の方が楽しめるかもしれない、というのが正直な感想。先ほどまで延々と述べた他では考えられないようなロードレースの常識が新鮮だろうし、厳しい世界に生きる選手たちの姿が斬新にうつるだろう。
だけれど、それを抜いて考えると、ちょっと薄っぺらな気がする。レースに触れている部分はいいのだけれど、そこを離れると、なんというか、動機と行動のバランスが悪い、というか、そんなことのためにそんなことしねえよ、というか。
一応ミステリ仕立てなのだが、それにしては主人公=探偵=成長すべき若者といういいとこどりなはずの白石という人物がいっこうに魅力的じゃないし、人物像が浮き立たない。
でも、売れている。
ただロードレースにあまりなじみがない人にとっては、ゴール手前で他のチームに勝利を譲っても八百長として非難されずに賞賛されるような変なスポーツもあるもんだと、興味深い部分もあるかもしれない。
2007年のツール・ド・フランス。あるステージに前回までのツール総合ディレクター、ジャン=マリ・ルブランが現れた。するとレース中の選手たちは四賞ジャージの選手たちを先頭に整列し、彼に敬意を表した(四賞ジャージってのは、その時点での新人賞、ポイント賞、山岳賞、総合の4つの部門でトップの選手が着るジャージ。ツール・ド・フランスでは新人賞は白、ポイント賞は緑、山岳は赤玉、総合は黄色)。
インプレイ中にこのようなことを行う競技はまず他にはあり得ないと思う。
ことさら自転車ロードレースにはルール以外の不文律が多い。他の競技がよくも悪くも勝つための効率を求め、グローバル化しているのに対し、ロードレースは、はなはだヨーロッパ・ローカルのスポーツなのだ。南米やアメリカ、オーストラリアからどんなにいい選手が出ようと、彼らはヨーロッパのローカル・ルールの中で活動しなくてはならない。グラン・ツールの最終日、どんなに僅差でも周回コースまでは競わない、など、どんなに非合理的に思えても、それがサイクル・ロードレースのヨーロッパスタンダードなのである。それに従わなければならない。
サイクル・ロードレースがサッカーや野球、ラグビーに比べて、ヨーロッパ以外ではかなりマイナーな競技である、というのも理由だろう。また、プロチームがチームのバックボーンとして期待できる入場料収入というものがサイクル・ロードレースにはない。スポンサーだけが頼りだ。したがって、たとえそれがルールブックにないからと言って、スポンサーのイメージが悪くなるような行いは厳に慎まなくてはならない。
さらにサイクル・ロードレースを見慣れていない人間にちょっとよくわからないのが、レースは完全にチーム戦略に基づくものだということ。各チームにはエースがいて、他の人間はみな彼のためのアシストになる。エースをのぞくほとんどの選手は、何かのアクシデントがない限り一生表彰台には縁がない(映画「茄子アンダルシアの夏」でペペがステージ優勝できたのは、エースが落車、リタイアしてしまったから)。
エースとアシスト、その関係は絶対だ。1934年のツール・ド・フランス。フランスチームのエース、アントナン・マーニュがパンク、アシストのルネ・ヴィエットは自分も総合3位と優勝圏内にいたにもかかわらず即座に自分の自転車の車輪をエースに差し出し、自らはサポートカーがやってくるまで路傍に座って泣いていたってことがあるくらい。
去年のツールでもヴィノクロフが落車すると、他のアシストたちがいっせいに彼のところへやってきて集団まで引っ張っていった。アシストたちにとって自分の順位は関係ない。エースの順位だけが問題であり、自分たちはタイムアウトにならないようにゴールすればいい。
アシストはエースのための犠牲(サクリファイス)なのか。ぼくは違うと思う。チームのために役割があるだけだ。犠牲は大げさだと思うんだけれどな。
で、ロードレースを描いた近藤史恵「サクリファイス」。ロードレースが舞台という珍しい小説で、なかなか評判がいい。で、読んでみたのだけれど、これはロードレースというものを知らない人の方が楽しめるかもしれない、というのが正直な感想。先ほどまで延々と述べた他では考えられないようなロードレースの常識が新鮮だろうし、厳しい世界に生きる選手たちの姿が斬新にうつるだろう。
だけれど、それを抜いて考えると、ちょっと薄っぺらな気がする。レースに触れている部分はいいのだけれど、そこを離れると、なんというか、動機と行動のバランスが悪い、というか、そんなことのためにそんなことしねえよ、というか。
一応ミステリ仕立てなのだが、それにしては主人公=探偵=成長すべき若者といういいとこどりなはずの白石という人物がいっこうに魅力的じゃないし、人物像が浮き立たない。
でも、売れている。
ただロードレースにあまりなじみがない人にとっては、ゴール手前で他のチームに勝利を譲っても八百長として非難されずに賞賛されるような変なスポーツもあるもんだと、興味深い部分もあるかもしれない。