星野智幸「毒身」 講談社文庫
「生きることが霞むほど味に恍惚となる、抽象の極みのような食の世界と、生きるために食の確保が一秒一秒の課題である即物的な世界との狭間にあって、「食べて家族を支えるためには仕方ない」という先進国給与所得者の架空で中途半端な諦めに奉仕している」ファミレスで、永井さんは「毒身帰属の会」のプリンセス・ヨシノの面接を受ける。
毒身とは、「毒身帰属の会」代表プリンス・シキシマの造語で、独身者は自己のアイデンティティをすべて自己において支えるため自家中毒を起こすことがあるから独身=毒身なのだという。
「本能とは、人間が動物から「進化」した痕跡であって、現在の人類にとっては自然でも本来でも何でもない」
そう自覚しちゃった人間にとって、じゃあ、性とは、家族とは、そうしたものに対してどんな立ち位置でいればいいのか、いちいち考えていかなくてはならない問題なのだ。明治以降最近までは、無自覚のまま、男たるもの、女たるもの、かくあるべしみたいな規範があったが、そんなの別に自然でもなんでもない。そういう自然でもなんでもないものの圧力が減じ、われわれには、逆に自分の頭で考える必要が生じてしまった。
そこで出されるどんな答えも正解だろうし、また正解じゃないだろう。一人一人が自分の身をもって、自分の答えを確かめていかなくてはならない。
ケヤキとドミニカにつながるマンゴーの木、ブーゲンビリアとベゴニアの咲き乱れるアパートに、セクシュアリティや家族の枠を超え、集ったそんな毒身者たち。
なんだか、中年&極東版スパニッシュ・アパートメントの様相もあるが、そこに現れる、何かものにとらわれないようでいて、とらわれている彼らの姿がなんだか愛しい。メキシコからの帰りの飛行機の中でのテンコが美しくて、○。
「毒身帰属」「毒身温泉」と彼らの登場する毒身もののほか、「ブラジルの毒身」所収。この毛色の違う「ブラジルの毒身」に漂うラテンアメリカ文学のマジックリアリズムがかなりすてきだ。