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中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(2)

2008年03月26日 12時27分44秒 | 読書
 「イカの哲学」は、波多野一郎によって書かれ、今から40年以上前に私家版出版された思想の書である。この本には、中沢新一の解説とともに「イカの哲学」全文が掲載されている。
 波多野一郎について紹介しよう(ぼくもこの本を読むまで彼のことを知らなかった)。
彼は1922年、京都の綾部生まれ。グンゼの登記上の本社が綾部にあるのだが、波多野一郎はまさにグンゼの敷地内でグンゼ創業者波多野鶴吉の孫として生まれた。
 早稲田大学に進むも、在学中に学徒兵として招集され、自らすすんで航空隊に志願する。武士道精神の「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の立場にたつなら、むしろ危険な航空隊こそがもっとも安全と考えられるからだった(ほかにも、どうせ死ぬことになるのなら、最高の技術で作られた航空機を操縦したい、また山岳部に所属していたのでいつか航空機でヒマラヤを飛んでみたい、などと現実とロマンティシズムが入り交じった理由もあった)。
 満州に駐屯中、沖縄への特攻命令を受けたものの、特攻前日にソ連が満州に侵攻し、出撃は中止、彼はシベリアに抑留される。
 シベリアで共産主義化教育を受けるが、彼はその体制を受け入れるか否かは、正反対の国、アメリカを見てからだと決意、引き上げ後、アメリカに留学することにする(もちろん、軍歴があり、しかもその軍歴が神風特攻隊員、さらにソ連で共産主義教育を受けた人間の留学がほいほいと受け入れられるわけもなく、結構苦労したそうだが)。
 アメリカに留学、プラグマティズム哲学を学ぶとともに、夏の間のアルバイトとしてカリフォルニアの漁港モントレーで水揚げされたイカを冷凍に回す作業に従事する。
 ここで彼のユニークな「イカの哲学」が生まれる。
 「イカの哲学」は大助君を主人公に物語風に書かれたものだが、もちろん著者の実体験によるものである。
 主人公大助君は、アルバイトをしている最中、ひらめくのだ。

「今や、彼は数万のイカとの対面を続けている中に、世界平和のための鍵を見つけ出したのであります。乃ち、相異なった文化を持って、相異なった社会に住む人々がお互いの実存に触れ合うということが世界平和の鍵なのであります。
 ところで、何故に大助君は彼の哲学的探求において、在来のヒューマニズムを世界平和のための鍵として取り上げなかったのでしょうか? その訳は斯うなのであります。乃ち、人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして、動物たちと人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちであります。それ故、在来の単なるヒューマニズムは、われわれの社会で、しばしば叫ばれるものであるけれども、それ自体には、戦争を喰い止めるだけの力が無い。と、大助は結論したのであります」

 大助君は、イカの実存を通じて、現代戦争の根本的な原因はむしろヒューマニズムに存するのではないか、と思う。

 では、人間中心主義から脱却してどのような考えをもてばいいのか。それにはもっと生命根源、人間根源へ沈静して思想する必要がある。すると、戦争はまた違う様相を見せる(面倒くさいからこの展開はぜひ実際手にとってどうぞ)。つまり、人間の徴として、戦争は宗教や芸術とともに、人間の根源に組み込まれている存在なのだ。ヒューマニズムで戦争を抑止しようとするのは、だから本末転倒であり、人間の根源に戦争が組み込まれていることを前提にせず平和を考えることはできない(ここらへんは中沢新一の解説)。


「茲において、大助君は遂に世界平和のための鍵はお互いに相手の実存をよく認め合う事であると結論したのであります。勿論、之は思想や感情の伝達に依て達成することが出来るのであります。が、しかし、この場合のコンミュニケーションは普通の媒体に依る外に、当事者の体から出て来る直感を必要とするものでありまして、その直観という能力はこのコンミュニケーション全体においては、無くてはならぬ必要条件であり、且つ、われわれが天与のものとして持って生まれた他のすべての能力と協力しながら、その役目を果たすのであります」

 この言葉だけを読むと、なんだそんなことかと思われるかもしれないが、この「相手の実存をよく認め合う事」というのは人間同士のことだけではない。むしろ、この哲学で重要なことは人間中心主義の否定なのだ。
戦後都民が飢えて困っている時、野犬を殺して食べていた時期があった。このことに心を痛めたアメリカの政治顧問官の夫人が警視庁に野犬を殺さぬよう保護するように求めた、という。のんきなアメ公がなに言ってんだ、と思いがちだが、彼はそれを肯定する。彼の実存の認め合いとは人間を越えたもっと大きなものなのだ。
 だから、先ほどの引用前には、徳川綱吉の事例やこのアメリカ人女性の話、さらに南極越冬隊が犬を置き去りにしたことに関して、「もし、犬を連れ帰って来ないで、貴様達だけ帰って来たら、俺が貴様達を殺してやるぞ!」と新聞に投書されたことなどを取り上げて次のように言う。

「そのような人々はヒューマニズムの見地からみれば、気でも狂っているように見えるかもしれません。しかし、大助は彼等の感情は全く自然であるに違いない、と考えました。という訳は、彼等はその飼い犬達と話し合うことが出来、十分に意志や感情を疎通させることが出来、時には他の人間との間よりも、意志や感情の疎通がもっと立派に行われるからであります。彼等はある場合には、他の人間の実存に触れるよりも、よりたやすく動物達の実存に触れ得るのであります」

 こうした種を越えた実存の照応。実は、近代国家が誕生するまでは、それほどおかしな感覚ではなかったのだ。人間中心主義は近代国家ときわめて緊密に結びつき、その分断的思考法が人間と自然を分断し、日本人とアメリカ人を分断し、資本主義と共産主義を分断した。
 この分かつ思考法から、同質性を求める思考法へのシフト。それが平和やまたエコロジーへとつながっていく、と「イカの哲学」から中沢新一が発展させていく。そのキーはエロティシズム。
 最後の超戦争と超平和については、ちょっと論に飛躍がありすぎるんじゃないか、と思ったが、あとはイカの哲学から流れていく中沢節がとても楽しく刺激的だ。

 「」の引用部分はすべて波多野一郎からの引用。
 それにしても、ちょうど偶然、地球上の生物の中で最大の目を持っている動物はイカなんだよ、などとイカを食べながら話した翌日にこの本を読んで、イカの目の精妙さを知った。でかいだけじゃなく、精妙なんだな。

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