池澤夏樹「きみのためのバラ」 新潮社
この短編集を貫く意識は他者とのコミュニケーションだと思う。冒頭「都市生活」。都市で暮らす者としてさまざまな他者と言葉を交わしているが、実は言葉だけが行き交ってる中、コミュニケーションが不在となっている。空港の係、ホテルの受付。他者に対する想像力が欠如しているため、そこにコミュニケーションはない。
そんな主人公がちょっとしたコミュニケーションをレストランで見ず知らずの女性と交わす。「いきなり知らない人にこんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。でもねえ、きっと知らない人だから話せたのよ」都市で暮らすのも悪くない。
「レギャンの花嫁」。いい時代のバリのお話。もちろんぼくはいい時代も悪い時代もバリそのものをまったく知らないのだが、ここでそう語られる。これは「花を運ぶ妹」に関係する話で、まだぼくはそれを読んでいないので、割愛。
「連夜」。性欲でもなく、心でもなく、情事そのもの。そう書くと眉をひそめる人もいるだろう。しかし、ここに語られる情事に汚らしさは皆無だ。「お前が相手だから正直に言えば、あれはいいもんだよ、男と女って。さっきも言ったか? あの時はじめてそう思ったね。身体があって、なんの邪魔するものもなく、お互いの身体を使って快楽を引き出すことができる。引き出すことはそのまま与えることでもある。それぞれの心のことは忘れていられる。二人でやっていることに心の方を合わせればいいんだ。
なにがどうなっているのかわからないけれど、愛しているとはどちらも言わなかった。自分が道具として使われ、自分も相手を道具として扱う、かな。それでも快楽を共有することができる。そういう一夜だった」
セックスは総合的なコミュニケーションの最高のものの一つだとぼくは思う。生のセックスの力があまりに強いから、心だとか、愛だとか、セックスの回りにクッションを置こうとする。でも、そうした言葉は時としてあとからやってくるものだ。
「部屋に戻って、前の晩と同じようにして、それでもすることの一つ一つが初めてみたいに新鮮で、なにもかもがきらきらしている。まるで地球の上に最初に生まれた男と女みたいだ。一度終わって、うつらうつらしているうちにどちらかが相手を起こしてまたはじめて。途中で風呂に入って、互いの身体を丁寧に磨いて、その途中からまた……。はは、思い出すと恥ずかしい。
あの時はやれるかぎりのことをやろうという、なにか探求心のようなものがあった。どこをどうすればどんな感覚が味わえるか、全部知りたかった。ゆっくり、しつこく、じらして、唇と唇を触れるか触れない位置でとめて、かすかに舐める。我慢できなくなるまでそれを続ける。部屋のこっちとあっちに坐って、手が届かない位置で、一枚ずつ脱ぐ。見せる。玄関に入ったところで、外出姿のまま押し倒して、半裸でころげまわる。廊下に敷いた小さな絨毯の触感が実によかったりする。
要するに身体を使ってできることをぜんぶやった。心の話はない。こちらもその気にならないし、あの人も話さない」
舞台は沖縄の病院。沖縄がキーワードだ。彼女を駆り立てていたもの。自分自身不思議に思って、ユタのもとを尋ねる。そこで語られる不思議なお話。
「でも、他の土地ならばともかく、ここ沖縄ではそれもあるかもしれないとも考えるのです。私は子供の頃からご先祖のことを聞いて育ちました。いろいろ憑くものや、まぶい(つまり魂ね)を落とす話も聞きました。実際ここは、お盆にもなれば夏の青空に先祖の霊がずらっと並んでいるようなところですからね」
「レシタションのはじまり」。舞台はブラジル、アマゾンの小さな村。さらに山奥に行くとデセルトーレス(逃げる人)と呼ばれる人々がいる。決して争わない。だから平地の人間と交わろうとしない。畑も作らない。作っても収奪されるだけだし、収奪されても争わないからだ。だからいつも逃げている。そんな平和な人々の秘密。まるで「2001年宇宙の旅」のモノリスのような不思議な言葉。
「ヘルシンキ」。ヘルシンキで出会った父娘。ロシア人の母がいるが、すでに離婚している。国(ここで言う国は政治的な国ではない)を超えて人々はわかりあえるか。ちらっと彼の父福永武彦の「風土」を思い出した。
「わたしの気持ちは国への愛なんてそんな四角いものじゃないわ、と妻は言いました。サンクトペテルブルグの空気が要るの。わたしの身体はそれしか吸えないの。プーチンは最悪。マフィアは最悪。暮らしは最低で、冬は長い。アパートは狭くて食料さえ不足する。それでもロシアなのよ、やっぱり」
国を超えるためには、それなりの努力や情熱が必要だと思う。それが負担になるのか、新鮮な喜びとなるのか。
「人生の広場」。ミュンヘンでドイツ人の旧友と会い、彼のパリでの出来事を聞く。パリの孤独。それ故、強く人とコミュニケートする必要のある人々。
「寂しさを正しく感じるということもあるんだよ」とトマスは言った。「パリにはひどく寂しい一面がある。暮らしていて、深淵のような寂しさを目撃することがある。パリで財産にしがみついて一人で暮らしている老人の精神がきみに想像できるか? それは荒涼たるものだよ」
こうした老人がかたくなに人を拒否するさまにドイツ人が出会う。荒涼たる精神はコミュニケーションを拒否する精神に他ならない。
「いつも寂しさはついて廻るし、人はみな一人で生きると誰もが知っている。あそこでは人は深い孤独に落ち込みかねない。だから恋をするし、だから食事に時間をかける。そういうことを私は学んだ。そう日記に書いたのを覚えている」
「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」。落ちたコーヒー豆を拾いながら、昔のことを思い出す主人公。そのきわめてプライヴェートなことを初対面の女性に話す。話すことによって彼は癒されていく。
「みんながね、ここに来てそういう話をするの。こんな言いかたをして、私は君の事例を一般化しようとしているわけではないのよ。でもここの空気はみんなの口を軽くするみたい」
「そのためにこんなに遠くまで来たんですね」
「きみのためのバラ」。叙情的ないい話。あまりできないスペイン語でもどかしく思いながらも懸命にコミュニケーションをとろうとする。その気持ちわかるぞ。
コミュニケーションとは他者への想像力であり、それはつまり、思いやりと言ってもいい。そんなコミュニケーション=思いやりを表現するのに、池沢夏樹の文章はとても優しく暖かい。読んでいて心がほっとする短編集だ。
この短編集を貫く意識は他者とのコミュニケーションだと思う。冒頭「都市生活」。都市で暮らす者としてさまざまな他者と言葉を交わしているが、実は言葉だけが行き交ってる中、コミュニケーションが不在となっている。空港の係、ホテルの受付。他者に対する想像力が欠如しているため、そこにコミュニケーションはない。
そんな主人公がちょっとしたコミュニケーションをレストランで見ず知らずの女性と交わす。「いきなり知らない人にこんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。でもねえ、きっと知らない人だから話せたのよ」都市で暮らすのも悪くない。
「レギャンの花嫁」。いい時代のバリのお話。もちろんぼくはいい時代も悪い時代もバリそのものをまったく知らないのだが、ここでそう語られる。これは「花を運ぶ妹」に関係する話で、まだぼくはそれを読んでいないので、割愛。
「連夜」。性欲でもなく、心でもなく、情事そのもの。そう書くと眉をひそめる人もいるだろう。しかし、ここに語られる情事に汚らしさは皆無だ。「お前が相手だから正直に言えば、あれはいいもんだよ、男と女って。さっきも言ったか? あの時はじめてそう思ったね。身体があって、なんの邪魔するものもなく、お互いの身体を使って快楽を引き出すことができる。引き出すことはそのまま与えることでもある。それぞれの心のことは忘れていられる。二人でやっていることに心の方を合わせればいいんだ。
なにがどうなっているのかわからないけれど、愛しているとはどちらも言わなかった。自分が道具として使われ、自分も相手を道具として扱う、かな。それでも快楽を共有することができる。そういう一夜だった」
セックスは総合的なコミュニケーションの最高のものの一つだとぼくは思う。生のセックスの力があまりに強いから、心だとか、愛だとか、セックスの回りにクッションを置こうとする。でも、そうした言葉は時としてあとからやってくるものだ。
「部屋に戻って、前の晩と同じようにして、それでもすることの一つ一つが初めてみたいに新鮮で、なにもかもがきらきらしている。まるで地球の上に最初に生まれた男と女みたいだ。一度終わって、うつらうつらしているうちにどちらかが相手を起こしてまたはじめて。途中で風呂に入って、互いの身体を丁寧に磨いて、その途中からまた……。はは、思い出すと恥ずかしい。
あの時はやれるかぎりのことをやろうという、なにか探求心のようなものがあった。どこをどうすればどんな感覚が味わえるか、全部知りたかった。ゆっくり、しつこく、じらして、唇と唇を触れるか触れない位置でとめて、かすかに舐める。我慢できなくなるまでそれを続ける。部屋のこっちとあっちに坐って、手が届かない位置で、一枚ずつ脱ぐ。見せる。玄関に入ったところで、外出姿のまま押し倒して、半裸でころげまわる。廊下に敷いた小さな絨毯の触感が実によかったりする。
要するに身体を使ってできることをぜんぶやった。心の話はない。こちらもその気にならないし、あの人も話さない」
舞台は沖縄の病院。沖縄がキーワードだ。彼女を駆り立てていたもの。自分自身不思議に思って、ユタのもとを尋ねる。そこで語られる不思議なお話。
「でも、他の土地ならばともかく、ここ沖縄ではそれもあるかもしれないとも考えるのです。私は子供の頃からご先祖のことを聞いて育ちました。いろいろ憑くものや、まぶい(つまり魂ね)を落とす話も聞きました。実際ここは、お盆にもなれば夏の青空に先祖の霊がずらっと並んでいるようなところですからね」
「レシタションのはじまり」。舞台はブラジル、アマゾンの小さな村。さらに山奥に行くとデセルトーレス(逃げる人)と呼ばれる人々がいる。決して争わない。だから平地の人間と交わろうとしない。畑も作らない。作っても収奪されるだけだし、収奪されても争わないからだ。だからいつも逃げている。そんな平和な人々の秘密。まるで「2001年宇宙の旅」のモノリスのような不思議な言葉。
「ヘルシンキ」。ヘルシンキで出会った父娘。ロシア人の母がいるが、すでに離婚している。国(ここで言う国は政治的な国ではない)を超えて人々はわかりあえるか。ちらっと彼の父福永武彦の「風土」を思い出した。
「わたしの気持ちは国への愛なんてそんな四角いものじゃないわ、と妻は言いました。サンクトペテルブルグの空気が要るの。わたしの身体はそれしか吸えないの。プーチンは最悪。マフィアは最悪。暮らしは最低で、冬は長い。アパートは狭くて食料さえ不足する。それでもロシアなのよ、やっぱり」
国を超えるためには、それなりの努力や情熱が必要だと思う。それが負担になるのか、新鮮な喜びとなるのか。
「人生の広場」。ミュンヘンでドイツ人の旧友と会い、彼のパリでの出来事を聞く。パリの孤独。それ故、強く人とコミュニケートする必要のある人々。
「寂しさを正しく感じるということもあるんだよ」とトマスは言った。「パリにはひどく寂しい一面がある。暮らしていて、深淵のような寂しさを目撃することがある。パリで財産にしがみついて一人で暮らしている老人の精神がきみに想像できるか? それは荒涼たるものだよ」
こうした老人がかたくなに人を拒否するさまにドイツ人が出会う。荒涼たる精神はコミュニケーションを拒否する精神に他ならない。
「いつも寂しさはついて廻るし、人はみな一人で生きると誰もが知っている。あそこでは人は深い孤独に落ち込みかねない。だから恋をするし、だから食事に時間をかける。そういうことを私は学んだ。そう日記に書いたのを覚えている」
「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」。落ちたコーヒー豆を拾いながら、昔のことを思い出す主人公。そのきわめてプライヴェートなことを初対面の女性に話す。話すことによって彼は癒されていく。
「みんながね、ここに来てそういう話をするの。こんな言いかたをして、私は君の事例を一般化しようとしているわけではないのよ。でもここの空気はみんなの口を軽くするみたい」
「そのためにこんなに遠くまで来たんですね」
「きみのためのバラ」。叙情的ないい話。あまりできないスペイン語でもどかしく思いながらも懸命にコミュニケーションをとろうとする。その気持ちわかるぞ。
コミュニケーションとは他者への想像力であり、それはつまり、思いやりと言ってもいい。そんなコミュニケーション=思いやりを表現するのに、池沢夏樹の文章はとても優しく暖かい。読んでいて心がほっとする短編集だ。