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Radio workshop & everyday.

自灯明法灯明

「自らを灯(ともしび)とし、拠り所として、他を灯とすることなかれ。」

疲れました。

2013年02月09日 | 日記
兄弟三人で無事お勤めを果たす事が出来た事を感謝しています。
約一世紀に渡り過ごして来た一生は決して楽な事では無かったのではないかと考えます。
参列者へのお礼の言葉の中で、母の私共への愛情の深さを改めて計り知る事に成り
日々の生活の中で認知症だけは成りたくないと、保護司や短歌、詩吟、毎日の運動、大正琴
等数々の頑張りと乳がんの克服をも致しましたが、悲しくも父の他界をきっかけに寂しさの余り
認知症を患い、晩年はその症状も子供の認知すら出来ない事となりました。

でも、子供としてはただ生きているだけで良いと言う、願いも空しく他界して行きました。

「寒風に抱く遺骨に胸温む」
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こんばんは

2013年02月07日 | 日記
今日母が99歳の天寿をまっとう致しましたので
チョットだけお休みします。
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恵方巻き

2013年02月04日 | 日記
前回の日記に巻き寿司の予約を書いたが、昨日お昼前に買いに行きました
恵方巻きと言われるそうだが、ピンとこない
元々巻き寿司で有って、どこぞのコンビニ業者が海苔業者と結託し、発案したらしい

巻きずしは、稲荷寿司と共に大好きなので、買って食べる事が多い
しかし、そのままかぶり付き、食べるのは品が無い
巻き寿司の太巻きを、そのままかぶり付いて食べる習慣は、関西には有るらしい
個人的に言わせれば、下品この上も無い。

「鰯の頭も信心から」と言う言葉が有るが
 信じる者は救われる、と言う事か。

もう一つ恵方と言う言葉を調べて見た。
恵方とは、『歳徳人』の在する方向の事で
『歳徳人』とは、陰陽道で、その年の福徳を司る神と言う事らしい
その様なわけで、その方向に向かって福徳をお願いする。
毎年歳徳神の在する方角は変わり、来年は「東北東やや右」
金儲けを血眼で探し回っている輩に取っては、この上も無い好都合の理由である。

日本人は多かれ少なかれ、多神教か無宗教が多い
大体、生まれてからは、近くの氏神様へお宮参り、七五三でも氏神様、
初詣で、受験の祈願、各種の慰霊祭、結婚式も大体神式。
そして最後はお釈迦様に帰依した終わりを迎える。
この様に様々に信仰する対象が有っても、それを奇異な事ととして感じ無い事も
キリスト教、イスラム教の信者に取っては信じられないようです。

この、何でも有り神仏習合は明治の政府の神仏分離迄、お寺と神社は一所の存在だったと
されています。
それは、仏教が日本に伝わるまでは、其々の地域に土着信仰である氏神の存在が有り
仏教が伝わった後も、神仏は共存していた様です。
しかし、明治政府は天皇を頂きとする為、日本神話に出て来る神々を神とする必要が
有った様です。

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寒さ緩みて

2013年02月01日 | 日記
如月の二月
節分、立春、南国では梅が咲いたとか
我が庭の梅は、蕾固く咲く時期が待たれる

如月の夢を破りてあけの月

カーテンを閉めずに休んだら、明け方四時頃煌々と輝く月に、良き夢を見ていたのに
覚まされてしまった。
それも七時頃に成ると、ポツポツと雨が降って来た。
今日は一日雨に成った、未だやむ気配は無い

嫁さん巻きずしの美味しいお店へ、恵方巻きの予約を入れていた、多分日曜にわたしが買いに行く事に成るだろう。

学校、柔道関係に体罰のニュースが多く成って来た
わたしたちの年代では、叩く、ひっぱたくは当たり前ととして受け取っていた
なぜか、社会正義に反する様な事をした為に戒めとして叩かれた物と受け取っていた

勿論必ずしもその様に納得できる事ばかりでも無かった。
今でも理不尽と思われる事が有った事を覚えている
小学校四年の時、代用教員出身の女教師がいた、時々虫の居所が悪くなると
ヒステリーを起こし
「何でこんな事が分からないのと」生徒の首根っこを掴み、何度も何度も、黒板に生徒の頭を叩きつけていた。
子供心に非常に辛いものを見た思いを覚えている。

今だからバラしてしまうが、×△□州男と言う先生、朝から酒のにおいをプンプンさせて
我々生徒を並ばせビンタをして行った。
今でも、なんでビンタを受けなければ成らなかったか良く分からない。

体罰を肯定する気はサラサラ無い
叩かれても、叩かれ無くても、指導される側にとっては、
指導者の思いを理解する事に付いては、それ程違いは無いように思う。

叩かれたから良く分かるとか、叩かれ無かったから分から無いとか
そう考えるのは、指導者のエゴイズムに過ぎないだろう。

体罰とは、指導される側に取って、分かる様に、体に身に付くように教える事が
如何に難しい事で有るかの裏返しなのかも知れない。




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