長尾雅人『仏教の源流―――インド』
二 降誕から出家まで(文庫版54頁~64頁)
*懐妊
【マーヤ夫人は、天から白像が降りて来て胎内に入ったと夢見て懐妊しました】(54頁より)
*出産
【また女の人が右手を上に伸ばして花を摘むというポーズはインドでは美人を象徴する一つのポーズで、民間信仰の女神がよくこの姿で表現されています。仏教徒もまた、仏陀の母にこのポーズを適用したわけで、それ故、右脇から釈尊は誕生することになります。】(54頁~55頁より)
*生誕
【「天上天下、唯我独尊」というのは、何か非常に傲慢ないい方のようにも聞えますが、それはそうではなく、仏教徒がそのように最高貴の存在として釈尊を受けとっていたということを示しているのです。】(56頁より)
*幼児時代
【この御子は三十二相を具えて居られますから、家に留まって王位につかれたなら、恐らく転輪聖王になられるでしょうし、もし出家されるなら、必ず仏陀になられるに違いありません。】(58頁より)
*青年時代
【釈尊の若い頃のこともいろいろ伝えられています。非常に才能の高い人で、いわば文武両道にかけて秀でた人だったことが強調されます。】(59頁より)
【しかし他方、むしろ蒲柳(ほりゅう)の質で(註・からだが弱く病気にかかりやすい体質)あまり頑丈な体ではなかったことが事実のようですし、またその人柄から考えて、果してどこまで武道などに興味を抱いたかは疑わしく思われます。むしろ物思いに沈むことが多く、「生」ということの意味について、深く沈思黙考するという場面が、どの『仏伝』にも描写されています。】(59頁より)
【そこで王さまは、出家など思い立たないように、出来るだけ沈鬱の環境を除いて気分を引き立てようと、いろいろの方策を講じました。】(60頁より)
【要するに、青春を謳歌するようにいろいろ仕向けたわけで、釈尊はその若い頃、感覚的な豪奢な生活を送ったということになっています。】(60頁より)
*結婚生活
【才色兼備のヤショーダラーという娘と結婚して、ラーフラ(漢訳では羅睺羅)という男の子も生れました。ラーフラというのは、「障害」という意味です。】(60頁より)
*四門出遊
@東の門・老人
【「誰もがあのようになります。あなたは今は若いけれども、やがて必ずあのようになります」】(62頁より)
@南の門・病人
【「あれは病人です。 あなたは今は若々しくて健康だけれども、やはりいつかは必ず病気になるのです】(62頁より)
@西の門・死人
【「あれは人が死んだのでございます。あなたもやがては必ず死ぬのです」】(62頁より)
@北の門・沙門(出家した修行者)
【神々が沙門の姿をして現われたのです。その歩きぶりは、如何にも悠揚として落ちついた態度であり、その顔色も如何にも晴ればれとして深い内観をたたえています。】(63頁より)
【これこそ自分の進むべき道である、自分もまた出家しなければならない】(63頁より)
三 出家から成道まで(文庫版65頁~78頁)
*出家前夜
【いよいよ出家を思い立った釈尊は、ある晩そっと城を抜け出るのですが、その時一人子のラーフラをもういちど抱いてみたいと思いました。しかし、自分の妻であるヤショーダラーが目を覚ますかもしれないというので、それもやめて、そのまま足音を忍ばせて城の外へ出ます。】(66頁より)
*出家
【こうして出家しますと、釈尊は自分の身につけていた宝石、王冠、高貴な衣服などをすべて脱いで頭も剃り、それらいっさいのものをチャンナに持たせて、カピラヴァストゥへ帰らせるのです。(67頁より)
*先生
【マガダへ行った釈尊は、そこで二人の先生を訪ねています。アーラーラ・カーラーマという先生と、ウドラカ・ラーマプッタという先生ですが、これは二人とも禅定を中心的な方法とする禅定の師であります。】(68頁より)
@アーラーラ・カーラーマ
【南伝仏教の文献によると、釈迦は出家直後に道を求めんとして、彼のもとを訪れ「空無辺処」の教えを聞いて、間もなくその境地を証得した。彼は釈迦が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子の300人を共に率いていくことを要請した。しかし釈迦はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、彼のもとを去って次にウッダカ・ラーマ・プッタのもとへ行ったという。 なお、『方廣大荘厳経』7では彼の説いた境地は「無所有処」とするので、北伝仏教の仏説ではこれを一般視する向きが多い。】(wikipediaより)
註・空無辺処
【空無辺処(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。
物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。】(wikipediaより)
註・無所有処
【無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。】(wikipediaより)
@ウドラカ・ラーマプッタ
【彼は、非想非非想処の境地までを証得し、釈迦にこの境地を示すも、釈迦は即座にこの境地に至った。しかるに彼もアーラーラと同じく、彼の僧団を共に率いていこうと釈迦に要請するも、釈迦自身はこの境地もいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ、去って自ら道を求めたという。】(wikipediaより)
註・非想非非想処(有頂天)
【有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味しており、三界(上から無色界・色界・欲界)のうち、無色界の最高の処を指す。非想非非想天、あるいは非想非非想処と言う場合もある。
『倶舎論』に於いて、三界の中で最上の場所である無色界の最高天、非想非非想天が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天と言う。非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教においては、なお、これを生死の境とする。】(wikipediaより)
*苦行
【当時のインドでは、苦行者はたいへんに尊敬されて居り、苦行は解脱を得るための最も重要な方法と考えられていました】(69頁より)
*苦行の放棄
【苦行が解脱への道と信じられていた当時ですから、釈尊も一応はこれを試みる必要があったのでしょう。それを生命にかけて試みられました。しかしやがて、苦行が何の役にも立たない無益なものであることを知って、それを放棄する決心をします。これは周囲の人からは、堕落と受けとられました。前に申しましたように、苦行者はたいへんに尊敬されていましたから、それだけ逆に、苦行を止めることは軽蔑されることになります。しかし、真に解脱の道を求める釈尊は、敢然(註・かんぜん)として苦行の放棄に踏み切りました。】(72頁より)
*村娘
【スジャータからミルクとご飯を混ぜたお粥(乳粥という)をもらって食べることができました。スジャータは実は、ある願いごとがあって、近くの大きな老木に毎日供え物をしていたのですが、ある日その木の下に、やせ衰えた釈尊が座っているのを見て、自分の願いに応じて樹の精・樹精が姿を現わしてくれたのだと思い、喜んで念入りに乳粥を作って供えたのでした。】(72頁より)
*成道
【西岸にあった右の菩提樹の樹の下に来て、草を敷いて座ります。そして、「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という、非常に大きな不動の決意を持って座ったのでした。その結果、ついに十二月八日(漢訳仏典の伝える月と日)の夜が更けて明星が輝く頃、「この上ない最高の悟り」(無上正等菩提)に達せられたのです。】(73頁)
註・ウェーサーカ祭
【ウェーサーカ祭の正確な開催日は、その地域や宗派の採用する暦によって異なる。仏滅紀元を採用する上座部仏教では、満月の出る Uposatha の日(たいてい仏滅紀元の5月か6月)にウェーサーカ祭を行う。中国では、中国暦でいう4月の最初の満月の日にあたる。西洋のグレゴリオ暦では年ごとに異なるが、大体4月か5月に当てはまる。
ウェーサーカ祭が「釈迦の誕生日」と非公式に呼ばれることがあるのは、この祭りが釈迦の誕生・悟り(ニルヴァーナ、涅槃)・入滅(パリニルヴァーナ、般涅槃)の三大仏事に結びついているからである(日本の仏教では降誕会・成道会・涅槃会は別々に行われるが、南伝仏教ではこれらは同じ月の同じ日に起こったこととされる)。】(wikipediaより)
*降魔成道
【さらにまた魔王は、その娘三人を派遣して、釈尊を誘惑させようとします。三人の娘は、肌も露にして歌ったり踊ったり、流目を送ったり、甘い言葉をささやいたり、わざと裳をかかげて進んだり、あなたのような偉大な人のお給仕をしたいと申し出たり、あらゆる媚態をつくして誘惑につとめます。しかし、釈尊が不動であることは、いうまでもありません。】(76頁より)
【その魔とは、煩悩のことだと解されています。】(77頁より)
感想
@親鸞の夢告
【行者、宿報にてたとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん】
六角堂でのこの夢告は『降魔』であったのだろうか?そんな疑問にふとかられる。
上記の言葉から真っ先に思い出されるのは『一心正念直来(オネガイダカラ スグキテオクレヨ)』という池山栄吉先生の言葉である。
『降魔』であったのか、無かったのか?というのならば、「降魔であった」という言葉が適確なのかも知れない。しかしながら、宗祖親鸞聖人は『煩悩具足の仏』(笠原一男氏)とも呼ばれる。煩悩を身に抱えられた宗祖である。
釈尊が菩提樹の下で「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という決意で草を敷いて座られる。
わたしの まちがひだつた
わたしの まちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
(八木重吉『草にすわる』)
スジャータは
【スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」】(wikipediaより)
という願いを持っていたらしい。欲(煩悩)である。
この時期になると、仏壇(お内仏)の前に受験の願書等を置いて居られる方々も居られる。スジャータの願いである。その『スジャータの願い』を持って居られる方々から布施(乳粥)をお預かりして生活している。
【一般的に、釈迦はスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある。】(wikipediaより)
らしい。
宗祖にとってスジャータは、共に阿弥陀如来より「煩悩具足のわれら」と呼びかけられる同朋であったに違いない。
え~と、当日の学習会内容を含めてブログにアップしようと思っていましたが、東北関東の大震災が起こり、そちらの情報収集に忙しくなり、申し訳ございませんが、今月は当日の内容の報告はなしという事にさせて頂きます。
二 降誕から出家まで(文庫版54頁~64頁)
*懐妊
【マーヤ夫人は、天から白像が降りて来て胎内に入ったと夢見て懐妊しました】(54頁より)
*出産
【また女の人が右手を上に伸ばして花を摘むというポーズはインドでは美人を象徴する一つのポーズで、民間信仰の女神がよくこの姿で表現されています。仏教徒もまた、仏陀の母にこのポーズを適用したわけで、それ故、右脇から釈尊は誕生することになります。】(54頁~55頁より)
*生誕
【「天上天下、唯我独尊」というのは、何か非常に傲慢ないい方のようにも聞えますが、それはそうではなく、仏教徒がそのように最高貴の存在として釈尊を受けとっていたということを示しているのです。】(56頁より)
*幼児時代
【この御子は三十二相を具えて居られますから、家に留まって王位につかれたなら、恐らく転輪聖王になられるでしょうし、もし出家されるなら、必ず仏陀になられるに違いありません。】(58頁より)
*青年時代
【釈尊の若い頃のこともいろいろ伝えられています。非常に才能の高い人で、いわば文武両道にかけて秀でた人だったことが強調されます。】(59頁より)
【しかし他方、むしろ蒲柳(ほりゅう)の質で(註・からだが弱く病気にかかりやすい体質)あまり頑丈な体ではなかったことが事実のようですし、またその人柄から考えて、果してどこまで武道などに興味を抱いたかは疑わしく思われます。むしろ物思いに沈むことが多く、「生」ということの意味について、深く沈思黙考するという場面が、どの『仏伝』にも描写されています。】(59頁より)
【そこで王さまは、出家など思い立たないように、出来るだけ沈鬱の環境を除いて気分を引き立てようと、いろいろの方策を講じました。】(60頁より)
【要するに、青春を謳歌するようにいろいろ仕向けたわけで、釈尊はその若い頃、感覚的な豪奢な生活を送ったということになっています。】(60頁より)
*結婚生活
【才色兼備のヤショーダラーという娘と結婚して、ラーフラ(漢訳では羅睺羅)という男の子も生れました。ラーフラというのは、「障害」という意味です。】(60頁より)
*四門出遊
@東の門・老人
【「誰もがあのようになります。あなたは今は若いけれども、やがて必ずあのようになります」】(62頁より)
@南の門・病人
【「あれは病人です。 あなたは今は若々しくて健康だけれども、やはりいつかは必ず病気になるのです】(62頁より)
@西の門・死人
【「あれは人が死んだのでございます。あなたもやがては必ず死ぬのです」】(62頁より)
@北の門・沙門(出家した修行者)
【神々が沙門の姿をして現われたのです。その歩きぶりは、如何にも悠揚として落ちついた態度であり、その顔色も如何にも晴ればれとして深い内観をたたえています。】(63頁より)
【これこそ自分の進むべき道である、自分もまた出家しなければならない】(63頁より)
三 出家から成道まで(文庫版65頁~78頁)
*出家前夜
【いよいよ出家を思い立った釈尊は、ある晩そっと城を抜け出るのですが、その時一人子のラーフラをもういちど抱いてみたいと思いました。しかし、自分の妻であるヤショーダラーが目を覚ますかもしれないというので、それもやめて、そのまま足音を忍ばせて城の外へ出ます。】(66頁より)
*出家
【こうして出家しますと、釈尊は自分の身につけていた宝石、王冠、高貴な衣服などをすべて脱いで頭も剃り、それらいっさいのものをチャンナに持たせて、カピラヴァストゥへ帰らせるのです。(67頁より)
*先生
【マガダへ行った釈尊は、そこで二人の先生を訪ねています。アーラーラ・カーラーマという先生と、ウドラカ・ラーマプッタという先生ですが、これは二人とも禅定を中心的な方法とする禅定の師であります。】(68頁より)
@アーラーラ・カーラーマ
【南伝仏教の文献によると、釈迦は出家直後に道を求めんとして、彼のもとを訪れ「空無辺処」の教えを聞いて、間もなくその境地を証得した。彼は釈迦が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子の300人を共に率いていくことを要請した。しかし釈迦はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、彼のもとを去って次にウッダカ・ラーマ・プッタのもとへ行ったという。 なお、『方廣大荘厳経』7では彼の説いた境地は「無所有処」とするので、北伝仏教の仏説ではこれを一般視する向きが多い。】(wikipediaより)
註・空無辺処
【空無辺処(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。
物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。】(wikipediaより)
註・無所有処
【無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。】(wikipediaより)
@ウドラカ・ラーマプッタ
【彼は、非想非非想処の境地までを証得し、釈迦にこの境地を示すも、釈迦は即座にこの境地に至った。しかるに彼もアーラーラと同じく、彼の僧団を共に率いていこうと釈迦に要請するも、釈迦自身はこの境地もいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ、去って自ら道を求めたという。】(wikipediaより)
註・非想非非想処(有頂天)
【有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味しており、三界(上から無色界・色界・欲界)のうち、無色界の最高の処を指す。非想非非想天、あるいは非想非非想処と言う場合もある。
『倶舎論』に於いて、三界の中で最上の場所である無色界の最高天、非想非非想天が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天と言う。非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教においては、なお、これを生死の境とする。】(wikipediaより)
*苦行
【当時のインドでは、苦行者はたいへんに尊敬されて居り、苦行は解脱を得るための最も重要な方法と考えられていました】(69頁より)
*苦行の放棄
【苦行が解脱への道と信じられていた当時ですから、釈尊も一応はこれを試みる必要があったのでしょう。それを生命にかけて試みられました。しかしやがて、苦行が何の役にも立たない無益なものであることを知って、それを放棄する決心をします。これは周囲の人からは、堕落と受けとられました。前に申しましたように、苦行者はたいへんに尊敬されていましたから、それだけ逆に、苦行を止めることは軽蔑されることになります。しかし、真に解脱の道を求める釈尊は、敢然(註・かんぜん)として苦行の放棄に踏み切りました。】(72頁より)
*村娘
【スジャータからミルクとご飯を混ぜたお粥(乳粥という)をもらって食べることができました。スジャータは実は、ある願いごとがあって、近くの大きな老木に毎日供え物をしていたのですが、ある日その木の下に、やせ衰えた釈尊が座っているのを見て、自分の願いに応じて樹の精・樹精が姿を現わしてくれたのだと思い、喜んで念入りに乳粥を作って供えたのでした。】(72頁より)
*成道
【西岸にあった右の菩提樹の樹の下に来て、草を敷いて座ります。そして、「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という、非常に大きな不動の決意を持って座ったのでした。その結果、ついに十二月八日(漢訳仏典の伝える月と日)の夜が更けて明星が輝く頃、「この上ない最高の悟り」(無上正等菩提)に達せられたのです。】(73頁)
註・ウェーサーカ祭
【ウェーサーカ祭の正確な開催日は、その地域や宗派の採用する暦によって異なる。仏滅紀元を採用する上座部仏教では、満月の出る Uposatha の日(たいてい仏滅紀元の5月か6月)にウェーサーカ祭を行う。中国では、中国暦でいう4月の最初の満月の日にあたる。西洋のグレゴリオ暦では年ごとに異なるが、大体4月か5月に当てはまる。
ウェーサーカ祭が「釈迦の誕生日」と非公式に呼ばれることがあるのは、この祭りが釈迦の誕生・悟り(ニルヴァーナ、涅槃)・入滅(パリニルヴァーナ、般涅槃)の三大仏事に結びついているからである(日本の仏教では降誕会・成道会・涅槃会は別々に行われるが、南伝仏教ではこれらは同じ月の同じ日に起こったこととされる)。】(wikipediaより)
*降魔成道
【さらにまた魔王は、その娘三人を派遣して、釈尊を誘惑させようとします。三人の娘は、肌も露にして歌ったり踊ったり、流目を送ったり、甘い言葉をささやいたり、わざと裳をかかげて進んだり、あなたのような偉大な人のお給仕をしたいと申し出たり、あらゆる媚態をつくして誘惑につとめます。しかし、釈尊が不動であることは、いうまでもありません。】(76頁より)
【その魔とは、煩悩のことだと解されています。】(77頁より)
感想
@親鸞の夢告
【行者、宿報にてたとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん】
六角堂でのこの夢告は『降魔』であったのだろうか?そんな疑問にふとかられる。
上記の言葉から真っ先に思い出されるのは『一心正念直来(オネガイダカラ スグキテオクレヨ)』という池山栄吉先生の言葉である。
『降魔』であったのか、無かったのか?というのならば、「降魔であった」という言葉が適確なのかも知れない。しかしながら、宗祖親鸞聖人は『煩悩具足の仏』(笠原一男氏)とも呼ばれる。煩悩を身に抱えられた宗祖である。
釈尊が菩提樹の下で「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という決意で草を敷いて座られる。
わたしの まちがひだつた
わたしの まちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
(八木重吉『草にすわる』)
スジャータは
【スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」】(wikipediaより)
という願いを持っていたらしい。欲(煩悩)である。
この時期になると、仏壇(お内仏)の前に受験の願書等を置いて居られる方々も居られる。スジャータの願いである。その『スジャータの願い』を持って居られる方々から布施(乳粥)をお預かりして生活している。
【一般的に、釈迦はスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある。】(wikipediaより)
らしい。
宗祖にとってスジャータは、共に阿弥陀如来より「煩悩具足のわれら」と呼びかけられる同朋であったに違いない。
え~と、当日の学習会内容を含めてブログにアップしようと思っていましたが、東北関東の大震災が起こり、そちらの情報収集に忙しくなり、申し訳ございませんが、今月は当日の内容の報告はなしという事にさせて頂きます。