坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

尼僧物語

2011年02月28日 | 坊主の家計簿
 変な時間にまた寝てしまった。。。そのまま朝まで寝れば良かったのかも知れないが、コタツで電気&テレビ付けっぱなしやったので、とりあえず起きてみたりしている。

 ダラダラと深夜テレビを見る。チャンネルを変えると、何やら旅番組。吉本の若手お笑い芸人のダイアンが出てて、まあ、それはそれで無難な深夜番組なんだろうが、驚いたのは画面右上にあったテロップ。『京大熊野寮・寮長(29)』。なにやらダイアンと一緒にテレビに映っていたのは京大熊野寮の寮長らしい。熊野寮の寮長ってテレビに映っても大丈夫なのか?っちゅうか、『熊野寮』自体、テレビ対象になってエエのか?真っ赤かやろ、あそこ。

 なんぞと思って、検索してみると、

 http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/10/post-9868.html

 ちょっと変わったみたい。

 検索していると、変な所(BAR)発見。

 http://www.wix.com/blackriot/black-riot

 素晴らしい。。。怪しさ満点やな。



 昨日『美人尼僧』というタイトルにしたので、今日は『尼僧物語』

 http://movie.goo.ne.jp/movies/p6740/

 多分、勝手な妄想としては「ヘップバーンに尼僧の格好をさせたかっただけ」というのかも知れない。
 例えば、今度「蒼井優ちゃんに菓子職人の格好をやらせたかっただけ」みたいな映画があるが、まあ、そんなものなのかも知れない。
 ちなみに、蒼井優の尼僧、ちょっと違うなぁ。。。宮凬あおいも違うなぁ。。。木村多江とかがエエなぁ。。。出来れば様々な事情でもって夫を殺してしまった、とか、で、その為に出家したとかがエエなぁ。。。

 あ、尼僧物語。

 昨日&数日前に行った学習会(?)で同じ様な話が出てた。まあ、なんちゅうんですやろ。「僧侶としてのこだわり?」みたいなの。
 数日前に行った学習会では教誨師もやってたり、その他、様々な出会いを求めて活動なさっている先輩住職。「一応」法衣を着て話しておられたのだが、話してた内容はいわゆる『法話』ではない。いわゆる『法話』ではないのだが、ない証拠(?)でその後の質疑応答で「坊さんらしい話」みたいなリクエストもあったし(笑)
 けど、なんじゃ、非常にしっかりとなさった方だったので、依存症について話して居られる事、依存症について紹介してはった事が「完璧に真宗やんけ」と。
 アルコール依存症の人は(まあ、私も怪しいのだが)「私はアル中ではない」というらしい。まあ、私がさっき『(まあ、私も怪しいのだが)』と書いた事がその証明だったりするのだが。。。
 「俺は昼間から飲んでないから大丈夫だ」とか(笑)
 まあ、他と比べて「俺はまだマシ、大丈夫」とアルコール依存症はいうらしい。
 で、依存症を治す為には「私は依存症であり、私はアルコールに対して無力である」みたいな事から認める事から始めるらしい。

【「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。】

 やんな。

 大谷派でささやかれる都市伝説として「坊さんらしくするのがダメ」というのがある。まあ、私は営業&楽という理由で丸坊主なんだが、これまた先日ツイッターでみかけた都市伝説では「真宗の坊さんは丸坊主にしたらアカン」っちゅうのがあった。いや~、別に丸坊主にして怒られた事はないが。でも、同級生が実家に帰った時に父親(住職)から、「髪の毛は何の為にあるんや」なんぞと、丸坊主にしている事を怒られたと言ってたが(笑)
 髪の毛は大事でっせ。ほら、市川海老蔵がワイドショーなんぞに撮影される時にパーカーのフードを被ったりしてますやん。あれって、単純に寒いからだと思う。私も寝る時にフードを被って寝てるし。頭、冷たい、冷たい。まあ、営業の為なので仕方がないのだが。

 でも、まあ、「衣が似合わん」っちゅうのは褒め言葉として使われているのは知っている。「衣を着た『いわゆる僧侶』の枠に当てはまらない」という意味合いでの褒め言葉。

 仏教には仏教の専門用語があったりして、また、漢文で読経したりしている。基本、「何を言うてますねんや」でもあったりする。専門的に勉強している人達の中でしか通じない言葉がそのまま世間に通じる、等という錯覚を持ってたり。悪いクセ。

 少し前にツイッターでとある真言宗僧侶が清めの塩について呟いておられた。確か「場合によっては僧侶を辞めなければならないかも」みたいな事。素晴らしい。。。その他の事に関してはともかく、こういう覚悟をもって僧侶をして居られるっちゅうのは名僧だと思ったりする。

 尼僧物語。もう、見てからかなりの年数が経過しているので、あやふやなんだが、主人公の尼僧が教団との関係で尼僧を辞める。尼僧をしていたら人を救えないからだ。

 少し話は変わるが、今日の昼過ぎにテレビを見てたら相撲の八百長騒動についてやってた。パネリストの1人が「相撲はスポーツなのか?」という事を仰っておられた。え~。。。日本に『スポーツ』という概念が入って来る前から相撲はあってでんなぁ。。。その中に八百長も含まれて、含まれた上での相撲ならば、それも含めての『相撲』なんだろう。別に相撲をスポーツ化しなくてもエエと思ったりする。あれは、ああいうもんなのだ。女性差別の相撲。あ、『大相撲』と言った方がエエのか?まあ、女性差別も含めたのが相撲であって、それが故に国際的ではないのか?日本人が英語をマスターして「国際化」なんぞと言って喜んでいるのと変わらん気がする。個々に違いを認め合うのが国際化なんだろうし。なので、相撲は、元々、ああいうもんであって、現在流行思想からするならば、女性差別で、八百長も含めたのが相撲なんだろう。そこにエエも悪いも関係ない。

 で、尼僧物語。

 親鸞は比叡山を降りた。誤解を産む表現だが、「すべての人が救われる道でないと私は救われない」みたいなものか。
 挙げ句に僧籍剥奪。非僧非俗の愚禿釈親鸞。
 
 当然、私は親鸞ではない。親鸞ではないが、親鸞の精神の影響を多大に受けている。『精神』っちゅうか、まあ、生き方、でんな。
 親鸞は比叡山を降りて、かつ、平仮名で本を書いたり、当時の流行曲、っちゅうか、今でなら初音ミクを使ってユーチューブに仏教をテーマにした曲をアップするみたいな事をやってはった(違うかも知れんが。。。)。

 そういう『変わって行ける力』が信仰の力であったりすると思ったりもするのだが、んなもん、これまたそれぞれ。「あの人は頑固やから真宗を解っていない』というのも、色眼鏡にしか過ぎない。自分の信仰を誇っているだけの話。で、そういう事を必ずやってしまうわけであって、でんなぁ。。。まあ、んなもん。

 信仰なんぞは全く個人のもん。誤解を生む言葉だが、現われ方なんぞ、人それぞれやろ。誰が決めつける事が出来るねん。決めつけるのは相手を落とし込みたい時に世間のやり方としてやっているわけであって、親鸞は『迫害した側』でなく『迫害された側』。
 で、「それはオカシイやろ。あんたら、そんな決めつけで生きてたら地獄に落ちるぞ」なんぞと言って首を切られた先輩念仏者。っちゅうか、『決めつけ』が地獄を作り出しとるわけであってでんなぁ。。。「なんで俺の人生はこうやねん」でも。

 尼僧物語では主人公の尼僧は教団を辞めて、尼僧を辞める。辞めざるを得なかった事情が生じたから。辞めなければ出会って来た人達を救う事が出来なかったから。

 まあ、ヘップバーン演じる尼僧が、大谷派の僧侶だったのならば、別に辞めずとも「衣の似合わんやつやのぉ。。。」で済んだかも知れないが。

 水子供養とか、ペット供養についても書きたいと思うのだが、寝な。。。
 まあ、生きている生身の人間が、生きている生身の人間が多く居ている環境の中で、生きている生身の人間を相手にしている。