坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ハンドベル

2010年03月02日 | 坊主の家計簿
 遅ればせの寺の通信を作ってたんだが、「あ、資料を読まんとアカン」っちゅう所でストップ。え~。。。明日は配布先がないし、今日行った所には「度々なんですが、また今月も遅れてまして。。。」と謝罪。なので、明日中に完成させんと。
 
 っちゅう事で、資料を読んで通信を完成させる気力がなくなったので、ネット遊び。

 先日、2月27日に『大阪宗教者九条の会五周年記念・大阪宗教者9条ネットワーク発足』
 http://osaka9j.rz.com/
 っちゅうのに参加する。
 元龍谷大学学長の信楽先生が来られると云う事で、書物でしか知らなかったし、一度お話を聞きたいと思っていたので参加する。んが、信楽先生の話も良かったけど、カトリック系の学生さんがやってたハンドベルが素晴らしかった。
 ちなみに私はパンクスである。パンクスなのでハンドベルを好んで聞く事はなかった。だからだったのだろうが、ホンマに素晴らしかった。
 
 最初に感じた事は『不効率』であった。だって、ハンドベルは一人5本程度の音階しか使われん。ピアノでやるのならば一人で充分だし、ハンドベルを機械化すればこれまた一人で出来る。でも、一人5本程度の音階のベルを持って、みんなで奏でられるメロディーが素晴らしく、素晴らしく、おっちゃん、思わず泣きそうになった。
 ちなみに、『大阪宗教者九条の会』は、超宗派、っちゅうか、目の前に天理教の法被着た人が居てたり、「念仏申したら無間地獄に堕ちるぞ!」の法華の人達も来られてた。どれだけの宗教団体の方々が来られてたのか知らんが、『念仏VS法華』みたいな宗教対立の関係の所もあっただろう。昔はそれこそ山科本願寺を焼かれたりした関係だったんだから。
 んが、今回はご一緒。その事がハンドベルと重なって、「おお、エエ感じやんけ」と。それぞれがそれぞれの現場で与えられた音を鳴らしている。それが一つのメロディーとなって、「ああ、美しい。。。」と。

 会場を本願寺派の北御堂から大谷派の南御堂に移して、南御堂で簡単な法要。集会でのお決まり(?)の決議文を採択して、御堂筋をデモ行進。
 南御堂を出るとすぐに違う意見の人達の叫び声。
 最後まで残った100人ぐらいの人達とデモ行進。不真面目な私はシュプレヒコールをせずに歩く。いや、最初にデモに参加した18頃から、どうもシュプレヒコールっちゅうのが性に合わんかって、最近はしまへんねん。と、まあ、歩いてたら、違う意見の人達がヤジ(?)で「なんや。年寄りばっかりやんけ!」と。ああ、41歳はもう年寄りなのね。。。確かに子どもも居てるし、「兄ちゃん」でなく「おっちゃん」と呼ばれる事に慣れて来たのだが、やはり年寄りなのね。。。と、若干ショック(笑)

 デモの様子がYoutubeにアップされていた。
 http://www.youtube.com/watch?v=-CmuEH1vpQE
 http://www.youtube.com/watch?v=OeFRxsNUxKc
 http://www.youtube.com/watch?v=GPQbUvs_Zuk

 ずっとバタバタしてた、っちゅうか、してるので最初のやつの始まりを少ししか見ていないのだが、ふと、小川紳介の『パルチザン前史』を思い出す。
 
 帰りに『元暴力学生』(笑)のバーで飲んで色々と喋ってたのだが、私らのデモは合法なのだ。警察に届けを出して、で、機動隊に守られてデモ行進をする。それに対して違う意見の人達は歩道から意見を叫ぶ。なので、機動隊は違う意見の人達を取り押さえようとする。最後の辺りでは5~6人に取り押さえられてたし、ひょっとしたら捕まったのかも知れん。これを逆で考えたら、無茶苦茶怖い。
 映画『靖国』の中で靖国神社内での記念行事(?)時に記念行事に対して『無許可』で抗議をした人が、『記念行事をしたい人達』から殴られていて、その後、警察に確か「病院に行こう」と連れて行かれそうになった時に「これは弾圧だ!」みたいな事を叫んでたが、あれが弾圧ならば、今回の事だって弾圧である。国家権力による言論の弾圧である。確か、最後辺りに囲まれていた人は拡声器も持ってなかった。拡声器は騒音の問題でヤバい場合もあるだろうが、大声でデモしてる私たちに叫ぼうが犯罪にはならんと思うのだが。まあ、法律はよう知らんが。
 何かのおり、例えば『佐藤訪米』でもエエのだろうし、どこかのお偉いさんが日本にやって来た時に路上から大声で「帰れ!帰れ!」と叫んで逮捕されたらたまったもんではない。

 以前は『左派』が反権力だったのかも知れんが、その左派の人達が多く支えたりする政党が与党だったりする。つまり、『国家権力の側』だったりする。
 『左派』と呼ばれてた運動の流れは市民運動になってたりする場合もある。そして、ウケが良かったりする。派遣村の人なんぞ、昨日NHKで特番組まれてたし。
 確か宮崎哲弥だったと思うが、「右翼という言葉は一時期差別用語であった」と語られていた。私も『左派』の流れの人達に若い頃育てられたのでその感覚は解る。解ると同時に私の中にそういう意識があった事、差別意識があった事を厳しく指摘されて、反省した。

 九条ネットから出馬されたとある念仏者の先輩は、「憲法改悪なんて、そんな言葉はないやろう」と、九条関係の集まりで語られておられた。バリバリの『運動家』でもあるのだが、バリバリの『念仏者』である方である。意見が違うだけなのだ。意見が違う『人』なのだ。同じ人間なのだ。意見が違うだけである。そして、意見が違うだけで『鬼』にしたりしてしまう事は、昔も今も変わりない。

 878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
 879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
 880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
 881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
 882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
 883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?
 884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
 885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
 886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
 887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
 888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
 889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
 890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
 891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
 892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
 893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
 (スッタニパータ『並ぶ応答-小編』)