坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

愚痴の海

2010年03月27日 | 坊主の家計簿
 ホームページ(http://web.me.com/enngakuji/tera/home.html)に寺の通信をアップする。
 そろそろ来月4月号を作らんとアカン時期なんだが。。。にも関わらず、アップしてなかった2月号と3月号をアップする。いや~、サボってました(笑)
 通信はパソコンで作っているのでアップするのは簡単、なはずなんだが、2月号の最後の面のデーターが『編集前』のやつでして、え~。。。一体、何があったのか、何がどうなってこうなったのか「全く解らん!」のだが、事実として、使い物にならないテキストしか残ってなくて、しゃーないので紙面を見ながら「なんでや、こんなはずやなかったのに。。。」なんぞと愚痴りながら打ち込む。まあ、自分が書いた文章とは云え、一応このブログみたいにダラダラ書いて居るわけではなく(紙面が足らんわ)、かつ、寺の経費を使ってコピーして配布しているものなので『一応』真面目に書いているし、恩師の言葉の引用もあったりするので、「これはなかなか勉強になるの」と。

 勉強といえば、今日は葬儀社の方と、葬儀関連のNPOの方のお話を聞いて来た。これもむっちゃ勉強になった。
 んが、その事をまとめてブログに書き込めるだけの気力が残っておらず、え~。。。
 
 ただ、なんちゅうねんやろう。え~。。。「全ての人に仏性がある」という事を再確認出来た。葬儀社の方の立場からのお話、的確な表現ではないだろうが『葬儀社や宗教者に依頼する側の立場』からのNPOの方のお話を聞いてて、「全ての人に仏性がある」。え~。。。つまり「みんな、ホンマは南無阿弥陀仏と言いたいんや」(by延塚先生)。ん?え~と、「みんな救いを求めとるんや!」か。ん?「みんな本当は『みんなと一緒に生きたい!』って願っとるんや!」か。
 ん?アカン、だんだん酒も入って来て酔うて来とるし、うまい事言えん。全ては「なんで2月号の最後の面のテキストがちゃんとなっとらんねんや!」と。なんぞとまあ、なんちゅうんでしょうか、事実を事実として引き受けられない私が騒いどるわけでして。「これはなかなか勉強になるの」なんぞとさっき書いたが、まあ、確かにそれほど『騒ぐ』もんでは無かったが、「こら、なんでやねん」と。「なんでもういっぺん打ち込まんとアカンねん」と。「くそ、ボケ。2月号の最後は『テキストが残っていない為にホームページにアップ出来ません」なんぞと書いて済まそうと思ったやんけ。けど、まあ、ホームページにアップしたいのは私であり、アップ出来なくて一番ムカムカするのも私であったりする。そういう『小さな』事なんだが、これだって『事実を事実として引き受ける事ができない』っちゅう問題、つまり『苦』の問題だったりする。

 ちなみに、ネットには書けないが、私だって大変なんである。「ちょっと聞いてえや」から始まって、愚痴愚痴愚痴をひたすら喋りたい気分、満載である。先日、久々にミナミに出て、「久しぶりやんけ」っちゅうちゅう事で、深酒してもうて、終電ブッチしてもうた時に、酔っぱらったおっちゃんはひたすら「いや~。人間って、おもろいぞ」っちゅう事ばっかりを『典型的な酔っぱらい』として喋っていたのだが、ありゃ、ちょっとカッコ付けたりしてるわけであって、んなもん、愚痴愚痴愚痴を誰かに聞いて貰いたくて、しゃーない、しゃーない。今だって、その気分、満載である。んが、ネットに書けないだけの話である。まあ、誰か私の支援の会を作ってくれ(笑)

 誰かに『苦』の内容を話と、もっというと、『話続ける』と、「あれ?私ってこんな事思ってたの?」にもなったりする。いや~、人間っておもろいぞ。その時には、当然、『誰か』が必要だとやっぱし思う。私なら、ネットで『書けない』っちゅうのもあるが、やっぱし、直接知っている人に対して「いや、こんな事があってですね」なんぞと愚痴愚痴愚痴りたい。

 『苦』を感じるのは『思い』であり、苦を愚痴愚痴愚痴だけで満足させるのは流転にしか他ならない。迷いを続けるだけである。他の『苦』が来るから。
 けど、親鸞は涅槃経の引用をする前に『誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。』と書いて居る。そこから、苦海のまっただ中に沈んでいる人がどうやって救われて行くのかを引用している。他人事じゃないし、親鸞はその人に共感している。歴史的には逆の時間軸だろうが、きっとその人は感動して泣いていると勝手に思う。
 「なんで、私の気持ち解ってくれるの?」
 って。