坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

自分の時間

2010年03月15日 | 坊主の家計簿
【ところが、黒悪道としてこの「浄土の真宗は証道いま盛なり」の「証道」を読むと、まったく違ったものになります。それは「黒悪道」というのですから、その迷える者、そういった世界に突き進んでいく者たちが後を絶たないということです。救いを捨てて生きようとする者たちが後を絶たないということを、「証道いま盛なり」と言うのです。むしろ仏教を捨ててでも念仏に生きた人たちが増えたということです。仏教の救いを捨てて、念仏に生きた人たちが後を絶たないということを、「証道いま盛なり」と言っているのではないでしょうか。黒悪道が目指すものは、救いを求めるのではなく、救いから救わざる者に向かって歩みだすことです。】(梶山敬一『真宗』2010年3月号42頁より)

 という文章を読んでいると、膝の上に居た娘が「パパ、それを私にも読ませて」と、手を差し出して来る。さすがは本願である。力ある言葉は乳幼児さえも動かすのであろう。。。
 つーか、まあ、何にでも手を出したいお年頃なんだろうが。。。

 しゃて、今日は初めて行く所の法事。何やら葬儀→満中陰までは田舎のお寺さんにやって貰ったらしいのだが、「近くのお寺さん」っちゅう事で連絡して来てくれたので一周忌法要。法事が始まる前に雑談してたら、何やらその寺の先代住職は、いわゆる『お東紛争』に深く関わっておられたらしく、寺の名前を云ってくれたのだが、寺の名前では解らずに、名前を聞いたら、名前はうる憶え。でも、キーワードから「ひょっとして○○さんですか?」と、当時の宗務総長の名前を言って、帰って来て寺の名前で調べたら、その宗務総長だった。で、当時の宗務総長の息子さん(?)である、現住職が付けた院号付きの法名が素晴らしく、法話ではその院号と法名を使って喋らせて頂いた。

 夜は、報恩講の講師依頼に出かける。「5分だけ時間を下さい」だったのだが、結局2時間ちょい話してた事になるのか。
 ちなみに講師の法話は聞いた事がない。でも、寺の歴史の事も踏まえての選択だったし、梶原先生が『医師』としての現場の中から法話をして下さるように、依頼した講師の方も多くの『苦』を抱えた方々との出会いの中で生活しておられるので今回来て頂く事にした。
 諸々話している途中でも他に数名来客があり、電話がある。まあ、依頼していた場所が講師の職場でもあるからなんだろうが、「夜、何時でんねん」っちゅう話でもある。

 元々飲み屋をやってた私は接客は得意でもある。まあ、それでないと店なんぞやってられへんし。でも、決して『人と話す事が好き』というわけでもない。だから、飲み屋時代に店が終わった後に飲みに行ってたし。今でも、学習会なんぞの帰りに終電までに時間があれば一人で飲みに行く。まあ、飲みに行った先で喋りまくったりするのだが、あれは『自分の時間』であって、『付き合い』ではない。
 当然、『付き合い』も楽しいのだが、それこそ、デートが終わった後にでも一人で飲みに出かけるぐらいだったし。数人で飲みに行ってワイワイした後でも、帰りに一人で飲みに行きたくなるようなヤツである。

 『自分の時間』。それこそ、このネット遊びの時間なんぞは典型的な『自分の時間』だったりする。辞めようと思ったら「眠い」で済む。んが、他人と一緒ならばそうはいかん。相手に断らんとアカン。「ゴメン、眠いから帰るわ」とか、「ゴメン、しんどいから帰るわ」なんぞと。

 梶原先生の文章を読んでて「安心、安心なんぞといっておるが、安心なんか宗教の堕落じゃないか!」といった意味合いの安田先生の言葉を思い出す。

 娘を膝の上に抱っこして本を読んでいると、娘が手を出して来る。パパは「仕方がないな」と、本を置いて娘と向き合うのだが、やはり「仕方がない」と。つまり、娘よりも『自分の時間』=『我』を大事にしている事を思い知らされる。