坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

仏華を供える

2010年03月18日 | 坊主の家計簿
 仏華を供える。
 諸々の事情でもって、住職になって今回で3回目。最初の時は急だったし、前回は全く時間なし。今回もバタバタしている中なんだが、「そろそろ準備をちゃんとしてからやろ」と、昨日ホームセンターへゴムホースを買いに行く。
 別にゴムホースで仏華に水を撒くのではない。華を入れる仏具の中にゴムホースを切ったやつを押し込むのだ。すると「あら不思議」っちゅう感じでもって、華が思った所に止まってくれる。仏具の中に剣山は入らず、『オアシス』っちゅうのか?華を固定するもんをイチイチ買ってたら経費がかかりすぎる。よって、ゴムホース。まあ、ベテランには不要なのだが、っちゅうか、使っているのは最初に居た寺で私の後に入って来た方しか知らないし。まあ、その方も、父親から教えて貰ったみたいなので、私のゴムホースは清沢満之批判である(笑)いや、清沢満之批判の大家の方がやってた方法みたいなので。

 仏華、っちゅうか、活け花自体がそうなんだろうが、あれは空間芸術である。なので、当然、先生について習えば一番なんだろうが、「空間芸術やったら、店の内装を作るのと変わらんやろ」なんぞと思いつつ、自己流でやる。だって、店の内装も誰かに教わったわけではないし、色んな店とか、雑誌とかで独学で学んだだけやし。なので結構楽しんでやっている。っちゅうか、華が思う所に止まってくれたら、楽しい♪楽しい♪

 仏華を使ってよく法話したりする。っちゅうか、かなりの確率で使ったりする。

 ♪花屋の店先に並んだ
  いろんな花を見ていた
  ひとそれぞれ好みはあるけど
  どれもみんなきれいだね
  この中で誰が一番だなんて
  争うこともしないで
  バケツの中誇らしげに
  しゃんと胸を張っている
 (SMAP『世界に一つだけの花』より)

 っちゅうのが仏華の基本だと思ったりする。だって『活け花』じゃん。『死に花』とちゃうぞ。やったら、『死に花』を作らんように、ひとつひとつの花が輝いて、そして、全体として「おお、エエ感じやんけ」っちゅうのが仏華の基本だと勝手に思う。だって、習った事ないし。

 なので、今の所、多くの花を使う事が出来ない。まあ、小さい寺なので花瓶の仏具も小さいし、多くの花を使ってひとつひとつの花を生かす技術は今の私に無かったりするし、かつ、花を習いに行くような余裕もない。
 なので、こつこつと。

 ちなみに『『世界に一つだけの花』の

 ♪それなのに僕ら人間は
  どうしてこうも比べたがる?
  一人一人違うのにその中で
  一番になりたがる?

 の部分を、業界用語で『機の深信』と言ったりする。んでもって

 ♪そうさ 僕らは
  世界に一つだけの花
  一人一人違う種を持つ
  その花を咲かせることだけに
  一生懸命になればいい

 っちゅう部分を『法の深信』と言ったりする。

 これまたついでなんだが、清沢満之っちゅう人は、今の大谷派が、『大谷派なる由縁』っちゅうか、まあ、今の大谷派は清沢満之が居なければ間違いなくなかった。んが、その清沢満之すらも批判する大谷派の伝統が大好きだったりする。確か最初に清沢満之批判をしたのは清沢満之の直弟子だったはずだし。
 批判する事で、師を『死に花』にするのではないと思う。だって、サンガだし。

 仏華を活ける時に、やはり私の中で、「あ、この花をメインにしよ」なんぞと思ってしまう。今日は百合があったので、「百合って高いし、花が大きいし」なんぞと。なので、百合をメインに活けてしまうのだが、百合を目立たす為に他の花があるわけではない。やっぱし、一々の花を輝かせてナンボである。一々の花を輝かせないと仏華が仏華で無くなってしまう。

 師は大輪の花である。しかしながら恩師達に教えて頂いた事は、指摘された事は、「結局、全ての人たちを『諸仏』として見いだせるかどうかなんだよね」という事あったりする。だって、私は、私の好み、つまり、清沢満之批判以前の問題で、私の感覚の中で「この人は好き、この人は嫌い」と、つまり、「この人には価値があって、この人には価値がない」なんぞとやってしまうのが私だし。
 それを『仏教』という名目でやってしまう。
 例えば、昨日も引用した

【念仏とは、「あらゆるいのちあるものと共に生きたいという仏の願いを忘れず、心に思い念じる」ことだ。】

 という言葉は、恩師の言葉なんだが、私は『仏教』という名目でもって、「この人の云う事は聞くけど、この人の云う事は聞かん」なんぞと。恩師をカリスマ化してしまう事によって、つまり、恩師を我がエゴを満足させる為の道具に使う事によって、他を切り裁く。

 仏教は釈尊であるが、釈尊に対して「教えを広めて下さい」と懇願したのは私(たち)である。
 無量無数の方々の願いである。
 大阪城を造ったのは豊臣秀吉ではなく、多くの職人さんであったのと同じく。

 ひとつひとつの花が、それぞれに輝く世界を『浄土』なんぞと呼ぶ。

 んが、私の仏華にはゴムホースも必要ならば、「ごめん、今日は忙しいから娘と一緒に居てられへんねん」というママと娘の協力があり、花を提供して下さった方の協力があり→無量無数の『それぞれ』の『お陰様』がある。

 『それぞれ』と言ってしまうのは、私に『個』があるからなんだが、しかしながらやはり私に『個』がある以上、『個』からの解放の道を歩まざるを得ないわけであって、故に『それぞれ』であり、『バラバラで一緒』である。