10月15日
外食 ラーメン 189円
食類 どんべえ3 234円
善通寺うどん2 176円
カキフライ 118円
合計 717円
10月累計 52903円
亀田家、亀田家と聞いてたら奥出雲の亀嵩の蕎麦が食べたくなった。あそこの蕎麦、美味いねんな。20年ぐらい喰ってないけど。当時は洗練された蕎麦じゃなく、もろ田舎蕎麦っちゅう感じやったけど、美味かった。確か、車内で一回、駅に降りて一回か。美味かったなぁ。
筆ペン練習。少しは上手くなった。まあ、4年ぐらいやってるはずやから当たり前やねんけど、歩みは遅い。ムチャ遅い。
当然、忙しくて練習出来ない時も多々あるし、ヘタって練習出来ない時もあるし、「また下手になった」の繰り返し。それでもトータル、4年の歴史でみれば上手になった。『少しは』との限定付きだが。
昨日、チョコチョコと毎度の酔っぱらいの戯言を書いて、今日思ったんだが、教団内の性差別、まあ、女性差別。
「あなた、それは女性差別です」と云うのと、
「あなた、それは本願に背きます」と云うのと、どちらが破壊力があるのだろうか?
男女貴賤を差別する本願なんぞ聞いた事ないし。
蓮如の御文。言葉上で問題はあるにしても書かれている内容は『女は浄土に行けない』という話ではない。
罪悪深重煩悩具足の凡夫の人間観である。そこからの救いである。善人が往生出来るのなら、悪人は尚更往生出来る。の宗教観である。
寺の本堂なんぞは浄土の荘厳だろう。浄土を表現する。
釈尊は尼僧教団を作ったという、当時では画期的な事をした。世間の身分も無視した。
ネオコン(新保守)の私は、正直、過激な反差別運動に辟易している。
女性差別と云う一つの論理を絶対正義として、例えば大峰山を強行登山しようとしたり、相撲の土俵に無理矢理上がろうとする行為は、違う視点から見たら完璧な人権侵害だ。その文化を否定している。自分達が握りしめた『正義』でもって、他を決めつける事の危険性は大昔から問題視されているにも関わらず、全く変わって居ない。人間だし。変わりようがない。それ故に『だからこそ』なんだろうが、正義を握りしめては間違いに気づこうとしないし。
大峰山には大峰山の論理があり、相撲には相撲の論理があり、女性解放運動には女性解放運動の論理があるだけの話。それぞれに正義があるだけの話。
その差異を互いに認め合う事が出来る事が出来れば良いのだが。。。無視し合って『別世界』ではなく、相互批判しつつ、それぞれが握りしめている正義が、所詮自分達だけの『正義』でしかない事に気づく事が大事だと云う『正義』を私は握りしめているのだが。
真宗教団には『女性解放運動』がある前から浄土があった。仏教サンガがあった。
老少善悪も男女貴賤も関係のない、いや、それらを相対化出来、「あんなヤツ等」と云う事を批判出来る『場』があった。はず。少なくとも吉水教団では。
真宗教団内での差別は、差別問題と云うよりも『仏法よりも世間法を立ててた』事である。
各寺でも同じだし、各寺で女性住職や、女性僧侶に対する偏見があるのなら、それは教えが教えになっていないことであり、門徒さん達からの反対なら、門徒さん達に教えが伝わっていなかった証明である。
当然、法輪は止まるべきものではないので、世間にアピールすべきである。
それは『反差別運動』ではなく、『真宗仏教の教え』である。
【先程から何やら差別したことが悪い、申しわけないとか何とかとこう、我々に謝るように言うておられますけどね、私は皆さん方、本願寺の僧侶としてね、そういうことはご開山に申しわけなかったというような気持ちはないんですか。】(米田富)
別に米田富氏を全面支持するわけでもないのだが、この言葉は強烈だ。
当然、解放同盟を慢心させたのは『本願寺の僧侶』の責任でもある。
外食 ラーメン 189円
食類 どんべえ3 234円
善通寺うどん2 176円
カキフライ 118円
合計 717円
10月累計 52903円
亀田家、亀田家と聞いてたら奥出雲の亀嵩の蕎麦が食べたくなった。あそこの蕎麦、美味いねんな。20年ぐらい喰ってないけど。当時は洗練された蕎麦じゃなく、もろ田舎蕎麦っちゅう感じやったけど、美味かった。確か、車内で一回、駅に降りて一回か。美味かったなぁ。
筆ペン練習。少しは上手くなった。まあ、4年ぐらいやってるはずやから当たり前やねんけど、歩みは遅い。ムチャ遅い。
当然、忙しくて練習出来ない時も多々あるし、ヘタって練習出来ない時もあるし、「また下手になった」の繰り返し。それでもトータル、4年の歴史でみれば上手になった。『少しは』との限定付きだが。
昨日、チョコチョコと毎度の酔っぱらいの戯言を書いて、今日思ったんだが、教団内の性差別、まあ、女性差別。
「あなた、それは女性差別です」と云うのと、
「あなた、それは本願に背きます」と云うのと、どちらが破壊力があるのだろうか?
男女貴賤を差別する本願なんぞ聞いた事ないし。
蓮如の御文。言葉上で問題はあるにしても書かれている内容は『女は浄土に行けない』という話ではない。
罪悪深重煩悩具足の凡夫の人間観である。そこからの救いである。善人が往生出来るのなら、悪人は尚更往生出来る。の宗教観である。
寺の本堂なんぞは浄土の荘厳だろう。浄土を表現する。
釈尊は尼僧教団を作ったという、当時では画期的な事をした。世間の身分も無視した。
ネオコン(新保守)の私は、正直、過激な反差別運動に辟易している。
女性差別と云う一つの論理を絶対正義として、例えば大峰山を強行登山しようとしたり、相撲の土俵に無理矢理上がろうとする行為は、違う視点から見たら完璧な人権侵害だ。その文化を否定している。自分達が握りしめた『正義』でもって、他を決めつける事の危険性は大昔から問題視されているにも関わらず、全く変わって居ない。人間だし。変わりようがない。それ故に『だからこそ』なんだろうが、正義を握りしめては間違いに気づこうとしないし。
大峰山には大峰山の論理があり、相撲には相撲の論理があり、女性解放運動には女性解放運動の論理があるだけの話。それぞれに正義があるだけの話。
その差異を互いに認め合う事が出来る事が出来れば良いのだが。。。無視し合って『別世界』ではなく、相互批判しつつ、それぞれが握りしめている正義が、所詮自分達だけの『正義』でしかない事に気づく事が大事だと云う『正義』を私は握りしめているのだが。
真宗教団には『女性解放運動』がある前から浄土があった。仏教サンガがあった。
老少善悪も男女貴賤も関係のない、いや、それらを相対化出来、「あんなヤツ等」と云う事を批判出来る『場』があった。はず。少なくとも吉水教団では。
真宗教団内での差別は、差別問題と云うよりも『仏法よりも世間法を立ててた』事である。
各寺でも同じだし、各寺で女性住職や、女性僧侶に対する偏見があるのなら、それは教えが教えになっていないことであり、門徒さん達からの反対なら、門徒さん達に教えが伝わっていなかった証明である。
当然、法輪は止まるべきものではないので、世間にアピールすべきである。
それは『反差別運動』ではなく、『真宗仏教の教え』である。
【先程から何やら差別したことが悪い、申しわけないとか何とかとこう、我々に謝るように言うておられますけどね、私は皆さん方、本願寺の僧侶としてね、そういうことはご開山に申しわけなかったというような気持ちはないんですか。】(米田富)
別に米田富氏を全面支持するわけでもないのだが、この言葉は強烈だ。
当然、解放同盟を慢心させたのは『本願寺の僧侶』の責任でもある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます