坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

四年前に書いた事

2020年07月26日 | 坊主の家計簿


 この写真は知的障がい者施設で働く私の腕である。以前も書いたが私の腕は比較的綺麗な方であって、例えば4月から来た新人さんの腕は私の十倍以上の引っ掻き傷がある。
 なぜこの様な傷が出来るかというと、一番最近出来た傷は突然引っ掻かれたが、一番多いパターンは、暴れ出した利用者さんが他の利用者さんに振るう暴力の盾になるから。言葉や促しや、手を引っ張ったりしてよそに行ってくれる人はイイのだが、向かって来る利用者さんが居たり、全く動こうとしない利用者さんが居た場合は盾になって利用者さんを暴力から守らないといけない。
 暴れる利用者さんを抑え込む事を「身体拘束」というが、この身体拘束は基本、「やってはいけない事」になっている。言い方を変えると、簡単にしてはいけない事である。「あ、暴れたな。身体拘束ね。」は虐待に繋がる。身体拘束の中には居室に閉じ込めるという事も入る。障がい者虐待防止法では緊急時の場合は許されるらしいが、まあ、ほぼ、全ての施設で隔離は行っていないのではないかと思われる。それよりも、「盾になれ」と。
 昔、知的障がい者は座敷牢に閉じ込められていた。その事によって他人への暴力は阻止出来る。「でも、それって人間としてオカシイやん。」からの流れで今の施設があるわけであって、故に全国各地の知的障がい者施設で働く人たちの多くは盾になって利用者さんからの暴力を日々当然の事として受けている。ある意味、金銭を受け取っているが故に人権がないのが私の様な末端の施設職員である。

 今日起った悲惨な事件の施設も私が働く施設と同じく最重度の知的障がい者を受け入れているらしい。故に、容疑者の彼も恐らく毎日の様に叩かれ引っ掻かれ噛み付かれ等の暴力を受けていただろう。

 施設職員と利用者さんとの間には、当然、人間と人間なので相性がある。例えば、今日もある先輩がトイレ誘導しても小便が出なかったが、直後に私がトイレ誘導すると出る。そんなもんだ。先輩後輩関係なく。
容疑者の彼はどうだったのだろうか?養護学校の教員を目指していたという情報もある事から察するに当初は熱い気持ちで施設職員になったのではないのだろうか?だが、利用者さんとの関係が思い通りに行かなくて苦しんでいたのではないだろうか?そして、その分だけ散々暴力を受けたのではないだろうか?そういう日々のストレスの積み重ねが、彼を容疑者にしてしまってのではないだろうか?

 彼が衆議院議長に送った手紙の中に「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」とあるが、それは彼自身の事ではないのか?
 彼の手紙の中には施設に居た利用者さんや保護者への愛も感じられる。ただ、その愛の形が利用者さんや保護者にとっては「大きな迷惑」以外の何物でもなかった。

 オウム真理教のテロ事件も彼らの宗教観の中では慈悲の行動であった。ただ、被害者にとっては大きなお世話の大迷惑でしかなかった。
 安楽死なんかとんでもない。だが、彼を追い詰めた恐らく大きな要因である最重度の知的障がい者施設で安月給で働く労働者が毎日どれ程の暴力を利用者さんの人権を護る為に受けているのか?彼を一方的な「悪魔」とし、死刑という安楽死をされるのではなく、彼の苦しみの一端でも理解しようとするべきではないのだろうか?

 今日の仕事は9時45分からだった。8時30分から始まる朝の引継ぎには当然出る事が出来なかったが、引継ぎでもその話題で持ちきりだったそうだ。私みたいな一年に満たない新米職員でも同じ現場、かつ、元とはいえ同じ施設職員が起こしたであろう大量殺人であるが故に大きな衝撃を受けている。上司になればなる程、職員教育の事も含めて大きな衝撃を受けているだろう。

 だが、これだけ大きな事件にも関わらず、この事件はすぐに忘れさられそうな気がする。
 名前も顔写真も出ない(出せない)犠牲者。顔を見る事、名前を見る事によって感情移入出来る部分が多々あり、性別と年齢という記号でしか出て来ない。19人という記号でしか出て来ない。まあ、これは今後ジャーナリストが名前や写真は親族がイヤがるプライバシーの侵害に当たるとしても、個別にどういう人であったのか?が出て来るだろう。ただ、それを読むのは、少数か。非常に残念だが、殺された被害者は「施設内」の人であったが故に、「私たちとは違う」という意識もどこかであるだろう。それは、殺人事件を起して「施設内」で殺される(死刑)人たちに対する意識とリンクする。

 明日は早番で7時出勤。一番の暴れん坊は切れ痔で御機嫌ナナメで、明日も多分暴れるのだろう。そして、多分、叩かれるのだろう。
 障がい者は、社会的に問題になるが故にただ単なる「個性」とは呼ばれずに「障がい者」と呼ばれ、その中でも家族も含めた地域社会だけでは面倒が見切れないような「厄介者(あえて)」であるが故に施設に入り、そして、私の生活が成り立っている。私の生活にとっての大切な、顔の見える「お陰様」である。
 だが、正直、一番の暴れん坊が帰省して居ない日の仕事は、もう、それだけで仕事の疲れが半分になる。当然他にも「迷惑(あえて)」な利用者さんが多くいるが、彼が居ないだけで、本当、楽になる。でも、それって、ある意味、その利用者さんの安楽死を願っているわけだ。

 南無阿弥陀仏。

 容疑者の彼のツイッター、2015年6月9日のツイートに「尊敬する人、阿弥陀如来君」とある。
 私は容疑者の彼が起こした事件によって、自分の支援の在り方、心持の在り方を慚愧する。お陰様を踏み躙るような私でしかない。それが故に、明日からの支援の力になる。正直、馴れてしまって雑になっている部分も多々ある。が、「んじゃ、共に生きるって何よ。縁起って、何よ」と。ごめんなさい、と。

 容疑者の彼はこれから恐らく一生涯隔離される。隔離されている中で、彼から「ごめんなさい」と聞けるのだろうか?いや、それは彼の人権を蹂躙している。今も彼の心の奥底では悲鳴を上げているのだろう。

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