母校のスクーリング。眠かったのだが、帰りの事を考えると「車で行った方がエエや」と車で行く。高速乗らないし、ガソリン代の方が安いし。明日はスペシャルゲスト(?)なので、まあ、ゲスト(?)の講義時間には行けないのだが、明日も行こ。
帰りの車の中でAMラジオを聴いていたら、何やら菅直人まだ総理大臣が
【菅首相:「脱原発」を明言…「将来なくてもいい社会実現」】
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110714k0000m010080000c.html
との事らしい。ラジオで聴いたのと、この情報ぐらいしか知らないのだが、まあ、無難な路線ではないかと思う。
明日のゲストは、え~。。。知らなかったのだが、母校の先輩だった某反原発運動をやってはる方。名前はよく聞くし、つーか、ネットで知り合った方の所に御参りに来ている(ちなみに総代らしい)坊主だし、元カノが冬の能登半島女一人旅に行った時に立ち寄った居酒屋で「大阪から来てんやったら坊主バーって知ってるか?」と言って来た坊主でもある。なので直接会った事はないが、何か親しみを憶える方でもあるのだが、え~。。。先輩だとは知らなかった。。。しかも、以外と若いのね。
何を話すのか知らないが、つーか、聞けないが、論破してやる(笑)
え~。。。嘘です。論破出来る程、原発に詳しくないです。ただ、昨日も上げた情報なんぞで、反原発の人達が信じている数字に関しての批判がある。その批判に答える形の数字がないとイケナイのでは?と、素朴に思う。だって、まあ、ほぼ『論破』に近いぐらいに潰されている。「原発が停まっても大丈夫だった」に関しては完璧に論破している。
ただ、まあ、誰しもそんなにヒマではなく、それぞれが見た数字(データー)を信じているのかも知れない。非常に残念ながら、『推進派』と『反対派』の公の議論の場、え~。。。私でも見れる議論の場が『朝まで生テレビ』ぐらいしかないのが残念である。で、「原発停めても大丈夫よ」の議論に関しては、高須クリニック、違うわ、飯田哲也氏ですら「供給者責任」という事になると沈黙せざるを得なかった。逆にその辺が飯田哲也氏を「こいつはエエ人やなぁ」と感じさせる要因でもあるのだが。「それはあなた達に都合の良いデーターでしかなく、あなた達は御用学者でしょ。そんなデーターは信じられません」みたいな事を朝ナマでは言わなかった飯田哲也氏はエエ感じである。さすがは脱原発に責任を持っておられる方である。だから、まあ、飯田哲也氏なんぞには、批判された意見を元に、もう一度精査して頂いて、具体案を示して行かなければ脱原発なんぞ出来っこない。神話では無理なのだ。神話でやるのなら、それこそ脱原発が神話になる。「出来っこないって」になる。「出来っこない」の証明でとして、反原発の人が出したデーターが如何に拙いか、ムチャであるかを出して、その証明にされる。それはアカン。確実な数字とデーターを出して、批判に耐えうる、感情論だけでなく、議論としての批判に耐えうるデーターを出して行かないといけない。
今日の菅直人まだ総理がどういう事を言ったのかはよく知らないが、上記リンクの記事では「来年以降は天然ガス」とある。ならば、それこそ、「原発分を当面天然ガスの火力発電で担います」と、国策的に大増産する体制を整えるとかでんな。日本で不要になれば、どこかの国に売れば良いのだし。まあ、そんなに上手い事行くかどうかは知らんが。
で、今日の帰り道、ラジオを聞きつつ再び考えていた「原発は安全である、という事に騙されていた」という事。いや、誰か知らんが、ラジオで「私たちは騙されていた」なんぞと言ってはってでんな。ホンマか?と。
確かに電力会社や、電力行政が「原発は安全です。」なんぞと言って来たのは確かだが、その為に膨大な予算を使って、え~。。。私は伊方原発と、え~。。。柏崎も行ったかな?でも、まあ、伊方原発の『伊方ビジターズハウス』で見た「ほら、原発って、こんなに安全なのですよ!」の、建屋のコンクリの分厚さが印象深いのだが、膨大な予算を使って「原発は安全です」のショールームを作ったり、あるいはテレビコマーシャルをやっていたのは知っている。
つまり、「安全です」と、まあ、言葉は適確ではないかも知れないが、「安全です」と、『騙そうという人』は居ても、騙された人はどれだけ居るのだ?
個人的感覚でいうと、まあ、全てが『個人的感覚』なんだが、「原発は危険だが、今の所はそれ程大きな事故もないし、原発作業員の人達の問題もあるが、まあ、エエか?」みたいな感じではなかったのか?
だいたい、危険だから、原発は大都会から離れた所にあるのでは?関西ならば若狭湾である。電力は送電ロスがあり、近い方がエエ。まあ、土地代の問題もあるのだろうが、基本は「危険だから」ではないのか?それを「知らなかった」とは、少し違うのでは?と。まあ、本当に知らなかった、本当に電力会社や電力行政の神話を信じて居た方もいてるかも知らないが、私は信じてなかったし、まあ、「なんとかく、大した問題がなかったし」である。もっと言うならば、「私に危機を感じさせるような出来事はなかった」というべきか。
似た様な事で、自衛隊の問題がある。自衛隊は軍隊である。「侵略する能力はない」かも知れないが、軍事に詳しくないので、「侵略する能力」つまり、戦闘機がどういう武器を搭載しているかとかの問題に詳しくないのだが、でも、素人考えで「んな事云うても、米軍の空母に乗って、米軍の護衛ぐらいは出来るのと違うんけ」と。戦車しかり。
また、後方支援も軍隊である。前線だけが軍隊ではない。
これも、同じく「なんとなく」であったりする。「いや、別に今の所、自衛隊は前線でミサイル射ったりしてないしなぁ。。。」みたいなもんである。なので、仮に自衛隊が米軍と共に戦闘行為を始めたとして、「え?自衛隊って、軍隊やったのか?騙されていたのか?」にはならないが、まあ、「なんとなく」だったりする。
毎日の生活があって、政治問題などよりも家庭問題でいっぱいいっぱいになって居て、「原発は危ないが、まあ、今の所は大丈夫やねんし」みたいなもん。
タバコの害はタバコ箱にも書いてある。また、肺がんの上昇率も当然知っている。なので、タバコを吸って肺がんや、肺気腫になった時に「俺は騙されていたんや」にはならないが、でも、タバコを吸っていたりする。それは、私がまだ、徹底的にタバコで辛い思い、まあ、肺気腫になるとか、肺がんになるとかしていないから。危険を承知でも吸っていたりするのだろうが、私は自信を持って断言するが、私が肺気腫になったり、肺がんになったりしたら、私は必ず後悔する。まあ、二日酔いで慣れたものですし(笑)
あ、話が。
「原発は安全だ!という言葉に騙されていた!」という人に中に、本当に、まあ、ある種「学校の先生のいう事は間違いありません」なんぞという優等生的な人がいて、本当に「騙された!」という人も居てるかも知れないが、結構多くの人は、「危険だと解っていたが、その責任を自分が取りたくないので『騙されていた』という事にしとこ」と無意識にしてしまっているのではないのか?と思ってしまう。
無意識に罪から逃げたくなる。誰かのせいにしたくなる。
母校では
【あたかも牢獄を逃れるごとく
人はみな自己の前を逃れんとすれども
世に一つの大いなる奇跡あり
我は感ず 『いのちみな生きらるべし』】
(リルケ)
という言葉を教えて頂いたが、最初にこの言葉に出会った時は
【『いのちみな生きらるべし』】
ばかりに関心が行き、感動していた。
でも、今は、その前の言葉
【あたかも牢獄を逃れるごとく
人はみな自己の前を逃れんとすれども】
という言葉に関心が行く。自己責任から逃げ出そうとしている私を指摘して下さる言葉である。
まあ、本当に「騙されていた」という人に対しては失礼なんだが、「本当に騙されていたのか?」と。単に自分自身から逃げ出そうとしているだけではないのか?と。
当然、『騙した側』の責任はある。「原発は安全です」とキャンペーンをして来た責任はある。だが、漠然とであろうが「原発は危険である」と知りつつ、イザ事故が起ると「騙されていた」とは、少し身勝手である。
で、身勝手な存在が私(たち)ではないのか?
どこまで行っても自己中心で、身勝手で、その時の気分次第でしか生きれない存在が私(たち)ではないのか?
「原発は安全である」と言って来た人達だって、「安全なら東京に作れや」は無理である。身勝手である。
原発事故が起る前まではCO2が大問題だったにも関わらず、今は原発である。「原発さえなんとかなれば」である。
CO2をバンバン排出しているのが目の仇だったのが、今は原発が目の仇である。
原発を海外に売り込みに行ってた総理大臣が脱原発である。そういう存在ではないのか?
「菅総理は原発を海外に売り込みに行っていた」という批判もあるが、では、福島原発事故が起る前までの原発に対する意識はどうだったのだ?
そういうものではないのか?身勝手な存在ではないのか?
という事で、身勝手な私は「明日は昼頃に法事やし、娘と二日連続遊ばないのも『親としてどうよ』」だったのが、今日、明日のゲスト(?)が宿泊する事を知って、突然変更(笑)
つーか、このブログでも、最近でこそ原発について書いて居るが、伊方原発に行った時の感想は、まあ、後日の旅行記になったのだが、これだ
http://blog.goo.ne.jp/erovows/s/%B0%CB%CA%FD%B8%B6%C8%AF
柏崎に行った時はラーメンの話しか書いていない。
http://blog.goo.ne.jp/erovows/e/5cfd210fcfe385899b66b87efc832bd3
記憶を辿る、それこそ『記憶をたどらなければ』柏崎にあった「原発安全でっせ」の所を思い出せない。確か、『そばよし』からもう少し海側に行った所にあったはず。んな程度。
今回の原発事故に関しても、最初は大災害だったし、まあ、原発が危ないという情報は掴んだので、ママに「今日はわかめの味噌汁にしよ」と言った程度である。
筋金入りの反原発運動家ではない私は、その時の気分や、危機感でしか、まあ、身勝手なものである。自己関心は身勝手である。
そんな『身勝手』な所で、どんな大義名分を並び立てようが、身勝手な所で『同じ』なのでは?
「あいつ等とは違う!」ではなく、何処で『同じ』と言えるのか?という問題なのでは?
と、まあ、これは当然、差別が大好きで、それこそ自分を優位に立たす、「俺はお前とは違うんだよ」と、優位に立とうとし、「悪いのはあいつや」と、必ずやってしまう、私の課題なので、そういう視点で考えてしまう。
当然、身勝手である。
帰りの車の中でAMラジオを聴いていたら、何やら菅直人まだ総理大臣が
【菅首相:「脱原発」を明言…「将来なくてもいい社会実現」】
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110714k0000m010080000c.html
との事らしい。ラジオで聴いたのと、この情報ぐらいしか知らないのだが、まあ、無難な路線ではないかと思う。
明日のゲストは、え~。。。知らなかったのだが、母校の先輩だった某反原発運動をやってはる方。名前はよく聞くし、つーか、ネットで知り合った方の所に御参りに来ている(ちなみに総代らしい)坊主だし、元カノが冬の能登半島女一人旅に行った時に立ち寄った居酒屋で「大阪から来てんやったら坊主バーって知ってるか?」と言って来た坊主でもある。なので直接会った事はないが、何か親しみを憶える方でもあるのだが、え~。。。先輩だとは知らなかった。。。しかも、以外と若いのね。
何を話すのか知らないが、つーか、聞けないが、論破してやる(笑)
え~。。。嘘です。論破出来る程、原発に詳しくないです。ただ、昨日も上げた情報なんぞで、反原発の人達が信じている数字に関しての批判がある。その批判に答える形の数字がないとイケナイのでは?と、素朴に思う。だって、まあ、ほぼ『論破』に近いぐらいに潰されている。「原発が停まっても大丈夫だった」に関しては完璧に論破している。
ただ、まあ、誰しもそんなにヒマではなく、それぞれが見た数字(データー)を信じているのかも知れない。非常に残念ながら、『推進派』と『反対派』の公の議論の場、え~。。。私でも見れる議論の場が『朝まで生テレビ』ぐらいしかないのが残念である。で、「原発停めても大丈夫よ」の議論に関しては、高須クリニック、違うわ、飯田哲也氏ですら「供給者責任」という事になると沈黙せざるを得なかった。逆にその辺が飯田哲也氏を「こいつはエエ人やなぁ」と感じさせる要因でもあるのだが。「それはあなた達に都合の良いデーターでしかなく、あなた達は御用学者でしょ。そんなデーターは信じられません」みたいな事を朝ナマでは言わなかった飯田哲也氏はエエ感じである。さすがは脱原発に責任を持っておられる方である。だから、まあ、飯田哲也氏なんぞには、批判された意見を元に、もう一度精査して頂いて、具体案を示して行かなければ脱原発なんぞ出来っこない。神話では無理なのだ。神話でやるのなら、それこそ脱原発が神話になる。「出来っこないって」になる。「出来っこない」の証明でとして、反原発の人が出したデーターが如何に拙いか、ムチャであるかを出して、その証明にされる。それはアカン。確実な数字とデーターを出して、批判に耐えうる、感情論だけでなく、議論としての批判に耐えうるデーターを出して行かないといけない。
今日の菅直人まだ総理がどういう事を言ったのかはよく知らないが、上記リンクの記事では「来年以降は天然ガス」とある。ならば、それこそ、「原発分を当面天然ガスの火力発電で担います」と、国策的に大増産する体制を整えるとかでんな。日本で不要になれば、どこかの国に売れば良いのだし。まあ、そんなに上手い事行くかどうかは知らんが。
で、今日の帰り道、ラジオを聞きつつ再び考えていた「原発は安全である、という事に騙されていた」という事。いや、誰か知らんが、ラジオで「私たちは騙されていた」なんぞと言ってはってでんな。ホンマか?と。
確かに電力会社や、電力行政が「原発は安全です。」なんぞと言って来たのは確かだが、その為に膨大な予算を使って、え~。。。私は伊方原発と、え~。。。柏崎も行ったかな?でも、まあ、伊方原発の『伊方ビジターズハウス』で見た「ほら、原発って、こんなに安全なのですよ!」の、建屋のコンクリの分厚さが印象深いのだが、膨大な予算を使って「原発は安全です」のショールームを作ったり、あるいはテレビコマーシャルをやっていたのは知っている。
つまり、「安全です」と、まあ、言葉は適確ではないかも知れないが、「安全です」と、『騙そうという人』は居ても、騙された人はどれだけ居るのだ?
個人的感覚でいうと、まあ、全てが『個人的感覚』なんだが、「原発は危険だが、今の所はそれ程大きな事故もないし、原発作業員の人達の問題もあるが、まあ、エエか?」みたいな感じではなかったのか?
だいたい、危険だから、原発は大都会から離れた所にあるのでは?関西ならば若狭湾である。電力は送電ロスがあり、近い方がエエ。まあ、土地代の問題もあるのだろうが、基本は「危険だから」ではないのか?それを「知らなかった」とは、少し違うのでは?と。まあ、本当に知らなかった、本当に電力会社や電力行政の神話を信じて居た方もいてるかも知らないが、私は信じてなかったし、まあ、「なんとかく、大した問題がなかったし」である。もっと言うならば、「私に危機を感じさせるような出来事はなかった」というべきか。
似た様な事で、自衛隊の問題がある。自衛隊は軍隊である。「侵略する能力はない」かも知れないが、軍事に詳しくないので、「侵略する能力」つまり、戦闘機がどういう武器を搭載しているかとかの問題に詳しくないのだが、でも、素人考えで「んな事云うても、米軍の空母に乗って、米軍の護衛ぐらいは出来るのと違うんけ」と。戦車しかり。
また、後方支援も軍隊である。前線だけが軍隊ではない。
これも、同じく「なんとなく」であったりする。「いや、別に今の所、自衛隊は前線でミサイル射ったりしてないしなぁ。。。」みたいなもんである。なので、仮に自衛隊が米軍と共に戦闘行為を始めたとして、「え?自衛隊って、軍隊やったのか?騙されていたのか?」にはならないが、まあ、「なんとなく」だったりする。
毎日の生活があって、政治問題などよりも家庭問題でいっぱいいっぱいになって居て、「原発は危ないが、まあ、今の所は大丈夫やねんし」みたいなもん。
タバコの害はタバコ箱にも書いてある。また、肺がんの上昇率も当然知っている。なので、タバコを吸って肺がんや、肺気腫になった時に「俺は騙されていたんや」にはならないが、でも、タバコを吸っていたりする。それは、私がまだ、徹底的にタバコで辛い思い、まあ、肺気腫になるとか、肺がんになるとかしていないから。危険を承知でも吸っていたりするのだろうが、私は自信を持って断言するが、私が肺気腫になったり、肺がんになったりしたら、私は必ず後悔する。まあ、二日酔いで慣れたものですし(笑)
あ、話が。
「原発は安全だ!という言葉に騙されていた!」という人に中に、本当に、まあ、ある種「学校の先生のいう事は間違いありません」なんぞという優等生的な人がいて、本当に「騙された!」という人も居てるかも知れないが、結構多くの人は、「危険だと解っていたが、その責任を自分が取りたくないので『騙されていた』という事にしとこ」と無意識にしてしまっているのではないのか?と思ってしまう。
無意識に罪から逃げたくなる。誰かのせいにしたくなる。
母校では
【あたかも牢獄を逃れるごとく
人はみな自己の前を逃れんとすれども
世に一つの大いなる奇跡あり
我は感ず 『いのちみな生きらるべし』】
(リルケ)
という言葉を教えて頂いたが、最初にこの言葉に出会った時は
【『いのちみな生きらるべし』】
ばかりに関心が行き、感動していた。
でも、今は、その前の言葉
【あたかも牢獄を逃れるごとく
人はみな自己の前を逃れんとすれども】
という言葉に関心が行く。自己責任から逃げ出そうとしている私を指摘して下さる言葉である。
まあ、本当に「騙されていた」という人に対しては失礼なんだが、「本当に騙されていたのか?」と。単に自分自身から逃げ出そうとしているだけではないのか?と。
当然、『騙した側』の責任はある。「原発は安全です」とキャンペーンをして来た責任はある。だが、漠然とであろうが「原発は危険である」と知りつつ、イザ事故が起ると「騙されていた」とは、少し身勝手である。
で、身勝手な存在が私(たち)ではないのか?
どこまで行っても自己中心で、身勝手で、その時の気分次第でしか生きれない存在が私(たち)ではないのか?
「原発は安全である」と言って来た人達だって、「安全なら東京に作れや」は無理である。身勝手である。
原発事故が起る前まではCO2が大問題だったにも関わらず、今は原発である。「原発さえなんとかなれば」である。
CO2をバンバン排出しているのが目の仇だったのが、今は原発が目の仇である。
原発を海外に売り込みに行ってた総理大臣が脱原発である。そういう存在ではないのか?
「菅総理は原発を海外に売り込みに行っていた」という批判もあるが、では、福島原発事故が起る前までの原発に対する意識はどうだったのだ?
そういうものではないのか?身勝手な存在ではないのか?
という事で、身勝手な私は「明日は昼頃に法事やし、娘と二日連続遊ばないのも『親としてどうよ』」だったのが、今日、明日のゲスト(?)が宿泊する事を知って、突然変更(笑)
つーか、このブログでも、最近でこそ原発について書いて居るが、伊方原発に行った時の感想は、まあ、後日の旅行記になったのだが、これだ
http://blog.goo.ne.jp/erovows/s/%B0%CB%CA%FD%B8%B6%C8%AF
柏崎に行った時はラーメンの話しか書いていない。
http://blog.goo.ne.jp/erovows/e/5cfd210fcfe385899b66b87efc832bd3
記憶を辿る、それこそ『記憶をたどらなければ』柏崎にあった「原発安全でっせ」の所を思い出せない。確か、『そばよし』からもう少し海側に行った所にあったはず。んな程度。
今回の原発事故に関しても、最初は大災害だったし、まあ、原発が危ないという情報は掴んだので、ママに「今日はわかめの味噌汁にしよ」と言った程度である。
筋金入りの反原発運動家ではない私は、その時の気分や、危機感でしか、まあ、身勝手なものである。自己関心は身勝手である。
そんな『身勝手』な所で、どんな大義名分を並び立てようが、身勝手な所で『同じ』なのでは?
「あいつ等とは違う!」ではなく、何処で『同じ』と言えるのか?という問題なのでは?
と、まあ、これは当然、差別が大好きで、それこそ自分を優位に立たす、「俺はお前とは違うんだよ」と、優位に立とうとし、「悪いのはあいつや」と、必ずやってしまう、私の課題なので、そういう視点で考えてしまう。
当然、身勝手である。