坊主の家計簿

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ストレステスト

2011年07月08日 | 坊主の家計簿
 何やら政府が原発に関してのストレステストを行うらしい。
 確かにこれは大切な事であって、今まで、どちらかというと原発の問題は『安全』という面で語られて来たが、『安心』という面では余り語られて来なかったのではないのか?この国の電力行政の中で原発が当面の間必要であるというならば、原発に関するストレステストは大事である。

 今日も、ツイッターを眺めていたら、何やら昨日の『九州電力やらせメール事件』に関連する事なんだろうが、原発に対して推進、あるいは容認をする意見を書き込んでいる人は『推進派の工作員』らしい。

 http://togetter.com/li/158680

 中には、『九州電力の社員の仕業です』と特定なさっておられる方もいる。

 http://twitter.com/orio_mgr/status/88966199626563585

 大変なストレスである。最早、精神科への入院を勧める段階ではないのか?

 また、この方々

 http://matome.naver.jp/odai/2130960410291399501

 も大変なストレスで、やはり精神科への通院を勧める段階だと思われる。

 ちなみに、ツイッターのトラブルの理由は解らない。それが原発推進派の仕業ならば、原発推進派はまずツイッターを買収しなければならないのではないのか?まあ、他にやる方法もあるのだろうが。
 しかし、まあ、トラブルの原因を『原発推進派の仕業である』と発想してしまって、かつ、それを書き込んだりしているのは、かなりなストレスである。
 原発容認・推進の意見が『推進派の工作員』の仕業というのは、単に「天皇制に反対するヤツは共産党員である」とか、「戦争に反対するやつは北朝鮮の工作員である」などというのと変わらん。私は戦争にも天皇制にも反対するが共産党員でもなければ、かつ、北朝鮮の工作員でもない。また、ツイッターでは放射能カルトを馬鹿にした事を書いて居るが、っちゅうか、今もか(笑)当然、推進派の工作員でもない。というか、やはり、意見が違う人を「工作員だ」としか思えないのはかなり危険である。そのうちに「推進派には悪霊が取り憑いている」とか言い出しよんぞ。
 しかしながら、それも原発から生じるストレスの仕業である。福島原発事故がなければ、上記の方々は精神的に病む、治療の必要はなかったのだ。あ、精神科に行く場合はちゃんと領収書をとっておいて、電力会社なり、政府に請求すべきだな。
 なので、政府がストレステストを始める事は非常にイイ事である。
 ただ、このストレステストが政府による強制入院に繋がると危ない。
 その方々にストレスをかけたのは政府なのだ。原発行政を進めて来たのは(政権は違うが)政府である。その政府が「ああ、この人達は最早強制入院の処置をしないとイケナイ」というのは違うのではないのか?確かに、過度のストレスで妄想を現実にして居られる事実がある。「そうではないのかな?」という疑いでなく、妄想を事実にして居られる。これは危ない。危ないのだが、そこまで精神的に追い込むストレスも原発事故がなければ起らなかった。

 今日も国会で海江田大臣が過度のストレスで絶句して居られていたが、やはりストレステストは大事である。
 まして、今年は節電というストレスもある。

 昨日、2ちゃんねるで某回転寿司のスレッドを見てたら、何やら放射能汚染された魚に対する不安で一杯だった。見たかった情報は「どこそこの、どのネタが美味い」という情報だったのだが、国産の魚を扱う回転寿司チェーンについて、放射能汚染された魚に対する不安で一杯だった。
 そういうストレスもある。

 また、震災以後に、特に関東方面なんだろうが、やはり外出を控えられる方が多いらしい。それは経済的な事もあれば、やはり「外出していると内部被曝の危険が多い」というのもあるだろう。
 水道水や、国産のミネラルウォーターに関する不安も増々広まって行くであろうし、そういうストレスもある。

 やはり、ストレステストは大事である。何やら全国でやるらしいが、今、国民がどれだけ原発に関してのストレスがあるのかをテストするのは大事である。その結果、今の政府に今後の電力行政を考えて頂きたい。。。

 え~。。。蒸し蒸ししますね。
 上記は当然、ネタなんだが、え~。。。でも、ホンマ、そういうストレステストも必要なのでは?
 それは『ストレスを治す』という方向性ではなく、「原発でこれだけのストレスが発生しているのだ」という事で。

 まあ、原発にかんしては最終的判断はやはり選挙になる。んが、選挙は複雑な要因が絡み合う。
 例えば、先の東京都知事選挙。え~。。。やはり、一番しっかりしているのは石原氏ではないのか?「石原の思想はキライやけど、他の候補と比べるとなぁ。。。」だったり。そういう要因で石原慎太郎氏に投票した人も居たと思われる。「思想や人間性はキライだが、しっかり仕事をしてくれる人」と、「思想や人間性は好きだが仕事が出来ない人」なら、どうよ。
 原発に関しての選挙でも「私は脱原発だ!」と威勢よく言われても、その他の方針や、その脱原発の内容が、まあ、例えば「広瀬隆先生が原発なしでも大丈夫と言っておられる」とかの場合、「こいつに投票してもなぁ。。。」ではないのか(笑)

 そういえば、今日の報道ステーションで、どっかの大学の先生が原発のコスト見直しをしていた。まあ、今までコストとして計上されてなかった部分を加味しての再計算だったのだが、ならば、他の電力に関しても同じ方法で計算し直すべきではないのか?それでないとフェアーとは言えない。んが、まあ、廃棄物の問題だけでも『コスト以前の問題』だったりするのだろうが、でも、例えば水力発電はダムなんだが、え~。。。八ッ場ダムは電力目的ではないが、ダム建設に対しての環境破壊、川魚などの漁が出来ないコストとかもあるだろうし、火力発電でのCO2のコストとかも含めないとフェアーではない。あくまでも、数字のトリックになってしまう。で、そういう数字のトリックは『原発推進派』『原発反対派』の両方にある。どちらが正しいわけではない。
 っちゅうか、まあ、今日出てはった大学の先生は『原発コスト』に対する見直しを頼まれたらしいので、別にあの先生が悪いわけではないのだが、その数字が一人歩きして反対派の政治的目論見に利用されるだけの話でんな。

 だから、やはりストレステストではないのか?

 「あなたは水力発電に対してどれだけのストレスを感じていますか?」「ダムが出来たのでこの川は死んでしまいました。一刻も早くダムを潰して、元の川に戻して頂きたいです」

 「あなたは火力発電に対してどれだけのストレスを感じていますか?」「火力発電も天然ガス等のCO2の少ないのもありますが、石油や石炭などのCO2バリバリのものもあります。CO2からの地球温暖化で私が子どもの頃には想像もつかなかったぐらいに35℃以上の日が当り前になって来ました。私はクーラーが苦手ですし、また、北極のシロクマや、南極の氷が溶け出して未知のウイルスが発生したり、温暖化のせいで生態系が変わって来ている事に対して多大なストレスを感じています」

 とか、でんな。
 
 でも、まあ、原発が一番なんだろうが。

 昨日、珍しく聞いていた国会中継の中で自民党・石破氏が「憲法が想定外だったらどうするのだ?」みたいな事を述べていた。(後でYouTubeを貼ります)
 
 原発事故でストレス満腹状態の中で、今まで推進あるいは容認だった人も「原発はアカンのと違うか?」という機運が高まっている。仮に、それこそ『憲法的なもの』、まあ、『非核三原則』みたいなもので「日本は福島原発事故があったので、将来に渡って原発は持ちませんし、各国に対しても原発の危険性を訴えかけて行きたいと思います」みたいなものが出来れば、多くは賛成するのではないのか?
 先の戦争が終って、今の憲法が出来た。石破氏が端的に述べられている様に「戦争が出来ない憲法」である。しかし、その憲法は、まあ、歴史的なものは知らないが、仮に『押し付けられた憲法』であったにしろ、それを喜び、受け入れたのではないのか?石破氏は戦後の経済発展に関して「たまたま地震の活動期ではなかった」みたいな事も語られていたと思うが、それと同時に、『思いやり予算』なんぞはあっても、また、人件費が高い国なので世界でトップクラスの防衛費であっても、やはり「戦争を(積極的に)しなかった」というのもあるのではないのか?
 「どこかの国から戦争を仕掛けられる」というが、それこそ征韓論でも、あるいは日米開戦のきっかけも「アメリカが煽った」という側面もあるのではないのか?その上での現行憲法ではないのか?だから、「想定外」というのは違うのではないのか?
 同じく、仮に日本が脱原発になったとしても、『非核四原則』になったとしても、今後60年経った時に「天然ガスがなくなる、石油がなくなる、電力不足で企業が海外に流出するという事は想定外ではなかったのではないのか?」とならない様に、しっかりとした議論と、覚悟と、願いを受け継いで行く作業が必要だと思う。




【比丘達よ、人間の寿命が十歳のとき、七日の間激しい戦乱が生じた。彼らはお互いに鹿の想を受けた。そして、彼らは各々鋭い刀を手に持って現れた、その鋭い刀によって、『これは鹿だ。これは鹿だ』と、各々がお互い生命を奪い合うのである。しかし、比丘達よ、これらの衆生のある者に、次のような念が生じたのである。『我々はだれをも害することはできないし、まただれもが我々を害することはできないのだ。それでは、我々は叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保つことにしよう。』

 そこで、彼らは叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保ったのである。そして、その七日が経過した後、彼らは叢林や樹木の間の穴や、河の洞穴や岩窟から出てきて、お互いに抱き合い相集まって、喜び祝って、こう言った。
『喜ばしいことだ。あなたも生きているのか。あなたも生きているのか。』

 そのとき、比丘達よ、彼ら衆生には次のような念が生じたのである。

『我々は不善法を行じたことにより、長いこと近親を滅ぼすことをしてきたのだ。それならば、我々は善法を行じようではないか。では、どのような善を行じたらよいのだろうか。そう、我々は殺生を禁じよう。我々はこの善法を受持することにしよう。』

 そこで、彼らは殺生を禁じて、この善法を受持した。そして、彼らは善法を受持することによって、寿命は延び、顔色は美しさを増していったのである。彼らの寿命は延び、顔色は美しさを増していき、人間の寿命が十歳のとき、その子の寿命は二十歳となったのである。 】
 (『転輪聖王獅子吼経』http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/tennrinnou.htmより)