坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

独り法師

2011年07月10日 | 坊主の家計簿
 娘は「かーい」と、治りつつある手足口病の他は復活→ママ倒れる。
 という事で、今日は朝から父子家庭。いや、ママは居てるんだけど、倒れているので。
 御仕事は今日もヒマ(明日は忙しい)だったので、御参りに行っている間だけ娘に「テレビ見といて」とか「ママと寝といて」なんぞと言って出かけて、すぐに帰宅。御飯も適当に買って来て娘と2人で食べる。プチ父子家庭の一日。
 夜になってママがプチ復帰。ほんの少しだけ御飯を食べて、お風呂に入って、娘と寝た。で、私は銭湯に行って、明日は早起きなので寝る準備中です。

 ツイッターの話ばかりしている気もするのだが、今日もツイッターで得た情報。っちゅうか、2ちゃんねるのまとめスレッド。

 
 【なぜ日本には世界的な宗教家や思想家が居ないのだろうか?チベットですら居るのに】
 http://blog.livedoor.jp/dot2ch/archives/51975356.html

 いや、さっきツイッター見てて、思わず笑ってしまったので紹介。

 ダライ・ラマという人に私は信仰を持っていないので、私にとっては単なる『お茶目なお爺ちゃん』である。
 
 スレッドの2番目には『池田大作』と出て来る。
 この人は、確かに世界的に有名なんだろう。創価学会の信者は世界中に居てるらしいし。ん?『創価学会の信者』で言葉的に正しいのか?多分、間違っている気がする。創価学会は日蓮の流れの教団だし、『真宗大谷派の信者』みたいな言い方をしないし。あくまでも『仏教徒』なんだし『仏弟子』である。池田大作という人は、真宗大谷派で例えるならば訓覇信雄という人的な存在なのかな?『同朋会運動を作り上げた』→『創価学会を飛躍的に大きくした』みたいな感じでいうならば。あるいは、蓮如的な存在なのかな?ただ、日蓮の流れは出家教団なので、その辺の差があるか。よう知らんが。
 んが、私は日蓮の立正安国論は読んだが、当然、立場が違うわけだし、日蓮に対して「先生」とは呼ばないし、思わない。同じく池田大作氏に対しても同じであるが、池田大作氏を『先生』と呼ぶ人達が居ている事は知っている。
 ダライ・ラマと池田大作氏がどちらが『世界的』なのか知らないが、まあ、私にとっては世界的ではない。信仰なんぞ、んなものではないのか?
 ダライ・ラマも、池田大作氏も『世界的に有名』ではあるが、両氏に対して「先生」であったり、「ラマ」と呼んだり(面倒なので『ダライ・ラマ』で通しましたが、あれは『上人』『聖人』といった意味である。)する人達にとって、両氏が『世界的に有名』な事は嬉しいだろうし、誇らしげな事であろうが、それ以前に最早両氏から教えて頂いた事の方が遥かに大切な事であるはずである。「世界的に有名だから信じる」というものではないはずである。信仰というものは。
 まあ、そういう信仰もあるのかも知れないが。。。長いものに巻かれろ的な信仰が。

 なので、この

【なぜ日本には世界的な宗教家や思想家が居ないのだろうか?チベットですら居るのに】

 という言葉は、私にとってはどうでもイイ事であったりするのだが、『信仰』や『宗教』というものが、『世間の価値基準』『世間の評価』として扱われている1つの証明であったりする。

 先日、最近有名になりつつある先輩と連続して飲んだ。特に2人で飲んでいる時に痛感したのだが、「変わってないのぉ。。。」と。まあ、元々才能のあった方なので『場を得た』のだろうが。まあ、有名になったら、有名になった分だけ「利用させて貰いまっせ」なんだが、それよりもネットにも書けない様な下らん話で盛り上がったり、あるいは昔から一貫してなんだが、会話してて色々と教えて貰ったり、刺激を貰ったりしているのが楽しい。それは、まあ、この先もずっと変わらんやろう。

 うちの恩師達は『世界的に無名』である(笑)一番大切な恩師なんぞ『大谷派でも無名』かも知れんぞ。まあ、母校の先生だったんだが、うちの母校も「院長先生が」とかの感じだったし。「院長先生がこんな事を仰せられました」みたいな感じも多々あったのだが、確かに今の院長先生も、私の当時の院長先生も大切な恩師ではあるが、一緒に生活をしていたのは、一番長く、深く、関わって、私に対して「世界は呼んでいる」じゃないが、まあ、ずっと問い続けてくれたのは班の担当の先生だったわけだし。
 なので、「んなもんとちゃうん?信仰っちゅうもんわ」なんぞと、私は思ってしまう。
 で、私にとって、私の恩師達は、当然、『世界的』である。『世界』を開いて下さったのだし。んなもん、世界的バリバリでっせ。

 求道心。「俺はどうやって生きたらエエねん!なんとかしてくれやボケ!」である。
 他人は知らん。けど、私にとっては、道を求める事が差別する事と同じ意味であった。それは今も変わらん。だって、『正解』を求めるわけだし。掴んだ『正解』という価値観から判断して差別が生まれる。そういう人間である事を教えられ、気づいただけの話である。

 娘は、ママが倒れてプチ父子家庭だった事によって大きく成長した。なんせ大好きなママが倒れているのだ。遊んでくれないのだ(遊べないのだが)。きっと、彼女なりに色々と悩み、考えたのだろう。あ、「なりに」は失礼だな。「彼女は」である。彼女は色々と悩み、考えたのだろう。
 パパである私は『ぼっち』という言葉を憶えた。
 『ひとりぼっち』を略しての『ぼっち』らしい。
 いや、単に御近所大学の2ちゃんねるスレッドを見ていて「食堂にカウンターもあるからぼっちでも大丈夫」みたいな事を書いてあって初めて知ったのだが。

 『ひとりぼっち』の『ぼっち』とは、ホンマかどうか知らんが『法師』『坊主』の意味らしい。

 http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_hitori.htm

 『ぼっち』が寂しい感覚というのは「みんなと一緒に生きたい!」という関係存在を求める感覚としてとても大切な事なんだが、それに溺れてしまうと「みんなと一緒でないとイヤ」になってしまう。『長いものに巻かれろ』になってしまう。
 『ひとりぼっち』は『独り法師』らしい。

【この 「独り法師」 は、「どこの宗派、あるいは寺にも属さず、たった一人だけで生活する法師」 という意味で、破門、もしくは変わり者で集団生活に馴染めず寺を 「弾きだされた」 坊主が、勝手に山の中などで生活する様を表す蔑称のような言葉でした。】(上記リンクより)

 らしい。

 『自分の意見』を述べる中で、あるいは、自分の人生を生きて行く中で、この『独り法師』という言葉は大切ではないのか?

 しっかし『同人用語の基礎知識』か。謎の言葉を解読するのに便利なサイトやな。使わせて貰お。