1月4日
雑費 スーパー銭湯 600円
外食 めし 698円
食類 インスタントラーメン10 556円
豪州純米6 630円
無添加ワイン 398円
発泡酒 185円
諸々 228円
合計 3295円
1月累計 14805円
明日、明後日と、プチ旅行に行く予定なので、起きて速攻溜まっていた家事を済ます。
その後、「銭湯、銭湯」と、御近所のスーパー銭湯へ。スチームサウナ三昧でんな。
正月のせいか、日曜日のせいか知らんが、スーパー銭湯、大混み。いつもはガラガラのスチームサウナも、今日はほぼ満員。
「この貧乏人め!温泉に行け、温泉に!」と思ったりもするのだが、その貧乏人の中に私も入っていたりするので困ったものだ。きっと、私みたいな性格の持ち主は、私と同じく「この貧乏人どもめ。正月には温泉旅行でも行きやがれ!」と思ったりしているのだろう。
こういう事は多々あるのではないかと思う。人気のラーメン屋の行列で「なんでこんなに並んでるねん」とか。そら、自分が並んでるから行列が出来てるのだが。自分がその場に身を置きながら、自分ヌキで考えてしまう。
迷惑。
「ああ、あいつさえ居なければ。。。」
等々。
これも自分ヌキ。
こんな時に必ず相手を悪者にする。
「この貧乏人め!温泉に行け!」でも、「なんでこんなに並んでるねん」でも、自分が同じ立場にも関わらず。
そうなのだ、自分は特別なのだ。
『私は特別』と、『私も特別』とでは意味が全然違って来る。
『私は特別』なら単なるエリート意識。選民思想を作り出す意識。
『私も特別』なら、「みんな同じ」の愚民。
放っとくとだいたいは『私は特別』になるのではないだろうか?エゴがあるし。エゴはオプションでなく、標準セットやし。
だから、『私だけ』を特別扱いして呉れる人に弱い。
「私だけを褒めたたえて!」みたいなもんである。
そんな特別な意識があるから、逆に他の多くの人たちと共にしながらも自分ヌキになる。
『私は特別』だけならば、他人は私の都合の道具にしか過ぎない。孤独の再生産にしか過ぎない。
『この人エエ人(意訳「この人は私にとって都合のエエ人である」)』
『この人悪い人(意訳「この人は私にとって都合の悪い人である」)』
と、分ける。選び、キライ、見捨てる作業。
だから、
「なあなあ、あの人って、エエ人やんか」
「なあなあ、あの人って、悪い人やんか」
と同意を求める。
自分が裁かれる事はイヤ。でも、他人は裁く。
いや、エゴの都合によって『都合のエエ私』『都合の悪い私』と分け、一喜一憂する。
都合が良ければ近づき、都合が悪ければ離れる。そうやって、『自分』を狭くする。自分の無限の可能性を絶つ。
『ひきこもり』とは、別に部屋に閉じ篭って居るから『ひきこもり』ではない。自分の都合に引き蘢っているのだ。
当然、『私は』そうである。私は、全く自分の都合によってしか生きていない。解放されずに引き蘢ったまんまである。
常に自分ヌキで考える。
自分ヌキの話を『世間話し』と云う。
決して、自分が主人公でない世界の話である。
都合がエエ、都合が悪いも引っ括めての『私』であり、『私が生きている世界』である。
そういう世界に『私も』生きている。
故に、自分ヌキで裁く事は間違っている。
決して『正しい』というエゴ肯定、煩悩肯定の世界ではない。
『間違っている』。
「みんな間違ってるなら別にエエやん」
も、自分ヌキである。
『私は』間違っているのだから。
雑費 スーパー銭湯 600円
外食 めし 698円
食類 インスタントラーメン10 556円
豪州純米6 630円
無添加ワイン 398円
発泡酒 185円
諸々 228円
合計 3295円
1月累計 14805円
明日、明後日と、プチ旅行に行く予定なので、起きて速攻溜まっていた家事を済ます。
その後、「銭湯、銭湯」と、御近所のスーパー銭湯へ。スチームサウナ三昧でんな。
正月のせいか、日曜日のせいか知らんが、スーパー銭湯、大混み。いつもはガラガラのスチームサウナも、今日はほぼ満員。
「この貧乏人め!温泉に行け、温泉に!」と思ったりもするのだが、その貧乏人の中に私も入っていたりするので困ったものだ。きっと、私みたいな性格の持ち主は、私と同じく「この貧乏人どもめ。正月には温泉旅行でも行きやがれ!」と思ったりしているのだろう。
こういう事は多々あるのではないかと思う。人気のラーメン屋の行列で「なんでこんなに並んでるねん」とか。そら、自分が並んでるから行列が出来てるのだが。自分がその場に身を置きながら、自分ヌキで考えてしまう。
迷惑。
「ああ、あいつさえ居なければ。。。」
等々。
これも自分ヌキ。
こんな時に必ず相手を悪者にする。
「この貧乏人め!温泉に行け!」でも、「なんでこんなに並んでるねん」でも、自分が同じ立場にも関わらず。
そうなのだ、自分は特別なのだ。
『私は特別』と、『私も特別』とでは意味が全然違って来る。
『私は特別』なら単なるエリート意識。選民思想を作り出す意識。
『私も特別』なら、「みんな同じ」の愚民。
放っとくとだいたいは『私は特別』になるのではないだろうか?エゴがあるし。エゴはオプションでなく、標準セットやし。
だから、『私だけ』を特別扱いして呉れる人に弱い。
「私だけを褒めたたえて!」みたいなもんである。
そんな特別な意識があるから、逆に他の多くの人たちと共にしながらも自分ヌキになる。
『私は特別』だけならば、他人は私の都合の道具にしか過ぎない。孤独の再生産にしか過ぎない。
『この人エエ人(意訳「この人は私にとって都合のエエ人である」)』
『この人悪い人(意訳「この人は私にとって都合の悪い人である」)』
と、分ける。選び、キライ、見捨てる作業。
だから、
「なあなあ、あの人って、エエ人やんか」
「なあなあ、あの人って、悪い人やんか」
と同意を求める。
自分が裁かれる事はイヤ。でも、他人は裁く。
いや、エゴの都合によって『都合のエエ私』『都合の悪い私』と分け、一喜一憂する。
都合が良ければ近づき、都合が悪ければ離れる。そうやって、『自分』を狭くする。自分の無限の可能性を絶つ。
『ひきこもり』とは、別に部屋に閉じ篭って居るから『ひきこもり』ではない。自分の都合に引き蘢っているのだ。
当然、『私は』そうである。私は、全く自分の都合によってしか生きていない。解放されずに引き蘢ったまんまである。
常に自分ヌキで考える。
自分ヌキの話を『世間話し』と云う。
決して、自分が主人公でない世界の話である。
都合がエエ、都合が悪いも引っ括めての『私』であり、『私が生きている世界』である。
そういう世界に『私も』生きている。
故に、自分ヌキで裁く事は間違っている。
決して『正しい』というエゴ肯定、煩悩肯定の世界ではない。
『間違っている』。
「みんな間違ってるなら別にエエやん」
も、自分ヌキである。
『私は』間違っているのだから。
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