坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

運命

2006年01月23日 | 坊主の家計簿
 1月23日

 今日は一文も使ってません。っちゅうか、『一文』なんて使えるわけないのだが。。。そんな貨幣は流通してないし。

 よって、
 1月累計   82247円


 外出もせずに、頭痛をイイワケに筆ペン練習もせずにビデオ鑑賞。『シュリ』と『恋愛小説』。

 『シュリ』は凝り過ぎ。

 『恋愛小説』は不覚にも泣いてしまった。。。いや、「小西真奈美が出ている」と云う非常に解りやすい理由で借りただけなのだが、あの「泣かせよう、泣かせよう」と云う手法に負けてしまった。。。あれが小西真奈美でなければシラケていたと思うのだが、なんせ小西真奈美なので泣かずにはおれない。
 「うう。。。真奈美タンはけなげだ。。。」
 と、すっかりミーハーやな。。。

 原作が金城一紀。要するに『GO』を書いた在日韓国人。

 映画に「運命になんか負けるな!」と云う真奈美タンの言葉が出て来る。

 まあ、基本的には恋愛の話なんだろうが、もっと基本的なテーマは『運命』とか云うやつ。
 主人公は度重なる不幸で『運命』を信じる様に成らざるを得なかった。真奈美タンも主人公にとっては「自分の運命に巻き込まれて死んでしまった」と頑なに信じる。
 でも、真奈美タンが死んで一周忌の夜に主人公が自殺を図ろうとする時に真奈美タンが書き残した
 「運命になんか負けるな!」
 と云う言葉に出会い、主人公は救われる。

 どうしても『GO』のイメージが残る。
 差別は運命で決まっているわけではない。そんな運命なんぞ唯のデッチ上げであって、昔の仏教教団(今もやってる所があるのだろうが。。。)の大罪である。
 差別は人間が作り出したものであり、それを『運命』と仮に云うならば、差別を解消していく『運命』があっても当然良いわけだ。
 よく云われる『運命』には自己が不在である。自己が不在で『運命』もクソもないだろうが。。。と感じるのだが、何故かそういう理屈に合わない『運命』がまかり通っている。そんな『運命』なんぞただ単に「長いものには巻かれろ」みたいなもんである。巻き付けたり巻かれても楽な人はイイだろうが、巻かれてイヤな人が居る。

 原因があり結果がある。どういう結果を求める道を歩む縁を作って行くのはそれぞれの『個人』であって、決して悪い部分で使われる『神様仏様』等では決してない。
 「御布施払えへんかったら地獄に堕ちるぞ!」
 なら、そういう坊主が云う地獄に堕ちてやればイイだけの話だ。そしてそんなものは無い。あり得るわけがない。

 『運命』がまかり通るのなら、釈尊は要らない。

 【すなわち、さとりを開いて「仏」と云う別のものになるのではなくて、正しいさとりに向かって努力しようと決意して、修行する、その中にさとりがあるという実践的な精神であります。】(前田 專學『ブッダを語る』P136より)

 差別なんぞ、無明の典型だろ。
 あきらめの宿業を説く仏教者は仏教者の皮をかぶった外道だな。
 そんな人達は『外道』の『腐った命』でもまず聞くこった。
 http://www.sonymusic.co.jp/Music/Sound/list_ka52.html