先般、中村勘太郎主演の角川映画「禅 ZEN」をMOVIXで見てから、鎌倉時代の北条氏のことが気になり、この北条氏のお城があったといわれる松戸市の相模台地周辺をうろついてみました。この標高25Mの広大な台地上には、現在、小学校や中学校、聖徳大学等の文教施設のほかに、東京拘置所支所や千葉地方裁判所等の官庁街等があり、平和な日々が営まれているが、この地は、その昔には、相模台城なるものがあり、激しい戦いの古戦場ともなっているです。
それを裏付けるように聖徳大学構内には、経世塚なるものがあるが、これは足利義明と北条氏綱が争った際の戦死者を葬った跡と伝えられる。つまり、天文7年(1538年)10月7日、この相模台地上において千葉生実(おゆみ)の小弓公方の足利義明と、小田原の北条氏綱との合戦があった。結局、戦は北条氏の勝利となり、公方義明(古河公方晴氏の叔父)と、その子、義純ら、千余人がこの地で戦死したらしい。この合戦が、「相模台合戦」といわれている。
これより、約300年前の建長元年(1249年)に房総三国の守護で第六代執権となった北条長時が、上総国山辺郡松之郷村と、この地の2ヶ所に城を築いたと言われる。以来、その子久時、その子守時の三代に及び、さらに嘉暦丙子(寅)年(1326年)、北条得宗家最後の執権となった北条相模守高時が入道して嵩鑑と号し、この城に居住したといわれる。この地は、松戸の岩瀬という地名があるが、それからは、この地を千葉県内にあるにもかかわらず、「相模台」と言うようになったそうだし、城を岩瀬城と呼ばず、相模台城というようになったらしい。
そして、先に書いた1538年の戦い以降は、目立った記載がなっく、歴史に登場してこないので、おそらく、後北条氏の滅亡後は廃城となったのであろう。
現在、上記に述べたように、この地の多くは公共用地等に利用され、その遺構は土塁・空堀等少し残るだけで、ほとんど残っていないといってよい。
小中学校や女子大の聖徳大学あたりをウロウロすると変なオジさんと見られそうだし、拘置所や裁判所あたりは、こちらがゴメン。腰を落ち着けて散策出来たのは、聖徳大学の隣の公園。松戸中央公園というらしく、指定避難場所になっていた。ところが、この公園の入り口に変な門と、人が入れる小屋見たいのがある。なんだろうと思い、門を入って、すぐそばに案内板を見る。それは、昭和52年に松戸氏市教育員会が設置した、この相模台の変遷の歴史が記せられていた。前半は、上記に書いた天文7年の国府台の戦いのことであった。この案内板の後半に、この門柱と小屋の回答が書いてありました。
そう、大正8年に、陸軍工兵学校が開設されて以来、太平洋戦争終結の昭和20年まで、この地に存続し、教育終了者は各所に配属され、工兵の街松戸は、広く知られるようになったそうです。なんだろうと思った公園入り口にある門柱と門衛は、つまり工兵学校当時の門柱と門衛のということでした。戦争が終って、現在では、本当に、市民にとっての平和な憩いの場となっており、中央あった花壇には色とりどりの花がやさしく、穏やかに咲いておりました。
それを裏付けるように聖徳大学構内には、経世塚なるものがあるが、これは足利義明と北条氏綱が争った際の戦死者を葬った跡と伝えられる。つまり、天文7年(1538年)10月7日、この相模台地上において千葉生実(おゆみ)の小弓公方の足利義明と、小田原の北条氏綱との合戦があった。結局、戦は北条氏の勝利となり、公方義明(古河公方晴氏の叔父)と、その子、義純ら、千余人がこの地で戦死したらしい。この合戦が、「相模台合戦」といわれている。
これより、約300年前の建長元年(1249年)に房総三国の守護で第六代執権となった北条長時が、上総国山辺郡松之郷村と、この地の2ヶ所に城を築いたと言われる。以来、その子久時、その子守時の三代に及び、さらに嘉暦丙子(寅)年(1326年)、北条得宗家最後の執権となった北条相模守高時が入道して嵩鑑と号し、この城に居住したといわれる。この地は、松戸の岩瀬という地名があるが、それからは、この地を千葉県内にあるにもかかわらず、「相模台」と言うようになったそうだし、城を岩瀬城と呼ばず、相模台城というようになったらしい。
そして、先に書いた1538年の戦い以降は、目立った記載がなっく、歴史に登場してこないので、おそらく、後北条氏の滅亡後は廃城となったのであろう。
現在、上記に述べたように、この地の多くは公共用地等に利用され、その遺構は土塁・空堀等少し残るだけで、ほとんど残っていないといってよい。
小中学校や女子大の聖徳大学あたりをウロウロすると変なオジさんと見られそうだし、拘置所や裁判所あたりは、こちらがゴメン。腰を落ち着けて散策出来たのは、聖徳大学の隣の公園。松戸中央公園というらしく、指定避難場所になっていた。ところが、この公園の入り口に変な門と、人が入れる小屋見たいのがある。なんだろうと思い、門を入って、すぐそばに案内板を見る。それは、昭和52年に松戸氏市教育員会が設置した、この相模台の変遷の歴史が記せられていた。前半は、上記に書いた天文7年の国府台の戦いのことであった。この案内板の後半に、この門柱と小屋の回答が書いてありました。
そう、大正8年に、陸軍工兵学校が開設されて以来、太平洋戦争終結の昭和20年まで、この地に存続し、教育終了者は各所に配属され、工兵の街松戸は、広く知られるようになったそうです。なんだろうと思った公園入り口にある門柱と門衛は、つまり工兵学校当時の門柱と門衛のということでした。戦争が終って、現在では、本当に、市民にとっての平和な憩いの場となっており、中央あった花壇には色とりどりの花がやさしく、穏やかに咲いておりました。