季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

親切心?

2009年08月31日 | その他
外出する機会が増えた。今年から再び週に一度は大学に行く。それだけなのだが。近所の人および宅配便の人から暇人と見做されるのも無理らしからぬことかもしれない。だから外出する機会は増えたのではない。機会ができたと言わなければならない。

朝、ラッシュのピークはとっくに過ぎた横浜線で新横浜まで行く。ピークは過ぎたといっても、混み合っていることに変わりはない。自分もその1人だと思うと、絶望に似た感情に襲われる。

新横浜で癇に障ることがある。電車を降りて階段にさしかかる。すると天井から鶯だったか、小鳥のさえずりの録音が流れてくる。

きっと他の駅でも似たような「安らぎの演出」が行われていると思う。この録音に癒される人が一体いるのだろうか?僕なぞは神経を逆なでされたような気持ちになるが。

腹が減ったときウナギ屋の前を通る。プーンと甘いたれが焼け焦げた匂いがする。空腹感はいや増す。この場合、腹は、あるいは腹の主である僕は癒されたというのか、はたまた逆なでされたというべきか。うーむ、難しい。少なくとも逆なでされたという表現にはならないだろうね。

仮にこの匂いが本物のウナギではなくて、合成された匂いであっても、事態はあまり変わらないのではないだろうか。

どこからこうした差異が出てくるのか。理由は簡単に見つかる。ウナギ屋は親切心から良い匂いを出しているのではない。おなかが空いていてお気の毒ですね、せめて匂いでもどうぞ、と言っているのではない。ここには善意の演出はない。もしも店主の気持ちがこもっているとしたら、どうだ、いい匂いだろう、さっさと店に入って来んかい、という気合くらいかな。

ふいに思い出した。その昔、電車通学していたころ、原宿駅のホームには「小鳥の来る駅」と書いたえさ箱が設置されていた。

ある日電車の中からふと見ると、小鳥が来てついばむべき箱の中に大きなドブネズミが入って餌を食い荒らしているではないか。男だって箸がこけても笑う年頃というのがあるのさ、可笑しくて仕方なかった。満員電車の中で哄笑するわけにもいかず、苦しかった思い出が甦った。

演出過剰は当時からあるのだな。しかし逆なではされなかった。人間の間抜けな一面ばかり目だって面白かった。

横浜線に話を戻すと、アナウンスでも気になることがある。

電車が参ります、お下がりください、と言っていること。ご丁寧に電光掲示板にも同じ文言が流れる。僕は毎度のことながら、なんだか平伏した電車がしずしずとやってくる様子を連想して可笑しくなる。もう箸が転んでも笑う年頃は過ぎ、哄笑をこらえることはないけれど。

これは電車が来ます、お下がりください、というべきなのではないだろうか。いくら車体はJRの所有するもので、僕たちはお客だからといっても。

気分的には分かるが、サービスの過剰演出と同じようで、毎度気になる。こちらは逆なでされるわけではないけれど。

参りますと言えばとても丁寧な感じが自動的に出るのだろうか。そういえば色んな店でお客様はどうやって参りましたか?なんて訊ねられることも多いね。はい、僕は電車でいらっしゃいました、と答えたら、きっと「きょうの客はアホやったなあ」と笑いものになるのだろうな。

参りました。
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トスカニーニ 2

2009年08月28日 | 音楽
トスカニーニによるベートーヴェンが、付点のリズムひとつとっても正確ではない、というところまで前回書いた。


なぜそういうことが起こったのか。誰の耳にも明らかな「間違い」を犯すということが。トスカニーニは正確さの権化ではなかったか。思うに、トスカニーニという人は、作曲家を尊敬するあまり、自分の感覚を否定したのだ。

彼の頭にはメトロノームはイン・テンポを刻めないかもしれない、という疑念はただの一度たりとも生じなかったはずだ。

自分が感じたものに「刻む」時をあてはめて、その感覚を修正していったのだと思う。気の毒としか言いようがない。

個人的に見れば今となっては気の毒な男だ、と言っても差し支えないが、音楽家がこの人への態度を曖昧にしたおかげで、現在に至るまで、いろいろな弊害が起こる。いい加減に清算したら、と僕が思うのも無理もない。

清算するなんて、学生運動華やかなりしころを思い起こさせるね。僕はこういう言葉が嫌いである。ただ、どうしていつまでも正直に見ないのかと、多少イライラしたので使ってしまった。

音大の練習棟に行って御覧なさい、ほとんどの学生がカチコチメトロノームで練習していますよ。

なにせ専科の教師からそうやって練習しろと言われているのだからもう救いようがない。これでも機会あるごとに、メトロノームはイン・テンポを刻めない、ということを噛んで含めるように言い聞かせているのだが、如何せん衆寡敵せず、焼け石に水、臭いものに蓋、いやそうなってはいけないな。

それに、メトロノームを使わなくなったからといって上達が保障されるわけではないからね。もしそんなことでよかったら、これはあまりに簡便で、なりたい人は誰でも上手になる道理だ。

メトロノームでイン・テンポを保障してその上で、それは音楽ではないからと勝手に「自由に」演奏する。その結果、自由な演奏は、たがが外れた、安定感を欠いたものになってしまった。

たとえばルバートひとつでも、ルバートを可能にする質量感がないまま、あさっての方角へすっ飛んでしまうようになった。

ギドン・クレーマーの唐突な表情は、吉田秀和さんによれば「アッと驚く、予期しない稲妻のような」ものらしいが、僕にはそう聴こえない。予期できないよ、確かに。でも、大抵の人が(日本人以外は)人のしないことをしようとただただ狙っている。投機師のようだ。

他の例を挙げれば一世を風靡した感のあるアノンクーアのオーケストラだって、素直に聴けば、ただの下手くその集団ではないか。こちらは「自由主義」ではなくて「研究」による結果、当時は奏者の腕前は低かったという見識から導かれた結果かもしれないけれどね。

そういう「自由主義者」の大量発生は、トスカニーニ流の厳格主義の裏面にすぎない。ただの一人も、今日トスカニーニ流インテンポの演奏はしない。でも、基本のイン・テンポはメトロノームに代表される刻まれた時間にある、という漠然とした盲信は持ち続けている。

だから「ロマンティックな余分なものを排除した演奏」というレッテルだけは大切に保管しているのだ。

本当は時間、テンポはただ経験されていく。その点ではまるでベルグソンの時間論そのものだと言っても良い。曲の流れは、たとえ厳格なテンポが要求される場合でさえも、それは微妙な揺らぎの中で(人間的に)捉えられるものである。話題がテンポになってしまったが、これはひとつの例にすぎない。

僕の記憶違いかもしれないけれど、たしかベルグソンは「自分の論は、いずれの日にか音楽の演奏家が正しく理解するであろう」と言った。それは時間論の中の一節だったような気がする。当時、その通りだ、と激しく気持ちが高ぶったことだけを記憶していて、出典を失念してしまった。

僕が興奮したわけは、音楽家がいずれ理解する、ということではなく、ベルグソンが演奏という行為をじつに正確に理解しているということにあった。

とんでもない、難しい横道に入り込みそうになったが、演奏における「正確さ」は何か、を問わない限りとんでもない「自由主義」は形を変えて次々にやってくる。

トスカニーニは正確さの権化と見做されていたし、今もその精神の後ろ盾のように見えるが、僕は彼は正確さを欠いた人物だと言いたいのである。

揺らいだ中でと書いたけれど、その揺らぎの中で得た安定だけが、さながらシャボン玉がさまざまな形状になりながらも安定した状態を保つように、自由な演奏を保障する。
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トスカニーニ

2009年08月26日 | 音楽
DVDの全集が出たり、どこかで必ず話題になったり、相変わらずこの人は音楽演奏の場には何らかの影響を持っているようだ。

そろそろ本当にものが言える人が出てもよさそうなものだが、その気配すらないから僕が言ってしまおう。損な役割だよなあ。

この男はばか者である、と。あるいは単なる道化役者だ。音楽家は皆、正直ではない。言質を取られないように言を左右に、むにゃむにゃ言ってごまかしているものだから、理屈を言うに長けた愛好家がいつのまにか先導している有様さ。

一言でいうならばこれで足りてしまうのだが、それでは子供の喧嘩ではないかと思う人が大半だろうから、少し言葉を補足しておく。

とにかく厄介なのは、この指揮者が作曲家に心から畏敬の念を持っていたということだ。たとえばプッチーニの「トゥーランドット」は最後の部分が作曲家が死んだせいで欠けている。

トスカニーニはこのオペラを演奏した際、プッチーニが書き記した音符まで来たとき指揮棒を置き「先生がお書きになったのはここまでです」と言ったと伝えられる。

話を逸らせると、プッチーニをそこまで尊敬する気持ちが僕には分からない。「トゥーランドット」は成る程人気のあるオペラかもしれないけれど、プチーニという人は「ラ・ボエーム」ですべてを出し尽くしてしまった人ではないだろうか。

それはさておき、トスカニーニの態度は律義者のそれに見える。ベートーヴェンと何とかのコラボなんていう催しばかりが流行する今日から見ればなんとまあ可愛い、と思えなくもない。美談だ。

つい数日前にも「美しい巻き毛のエリーゼ」だったか、少なくともそういう類の名の「エリーゼのために」を愚にもつかぬアレンジした楽譜を見せられて疲労した。

そういう意味では彼は野心家ではないのかもしれない。自分の成功のためには手段を選ばなかったカラヤンとは違う。自分が指揮するとき以外は、楽員の数を減らしていた、それを絶対に譲らなかったといった真似はできなかったかもしれない。

僕はこの人の演奏をすべて聴いたことがあるわけではない。批評家ならそれが要求もされるかもしれないけれど、そこまで暇人ではない。いくつか聴いてあとは判断してしまえばもう聴かない。

例えばマイラ・ヘスと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、あるいはルドルフ・ゼルキンとの、やはりベートーヴェンの第1番を聴いてみよう。

前奏ひとつとっても、とてもとても音楽とは思えない代物である。

なぜこんな男が当代きっての指揮者と見做されるようになったか。原因のひとつは、楽員も当時はそれなりに作曲家への畏敬の念を持っていたからだろう。どこにそんなことが書いてある、作曲家の意図を踏みにじるつもりか、君たちは、と猛烈な勢いで怒鳴りつけられてごらん。悪いのは自分たちだ、と恐れ入ってしまうような可愛らしい時代だった。演奏家ならば少しマンネリ化してサボってしまっている、という後ろめたさは皆持っているだろうし。

人間はそんなに単純なものだろうか、という疑問を持つ人もいるだろう。しかし、警察で厳しく尋問されて、覚えもない犯行を「自供」してしまうのも人間だ。

ましてや、自分の演奏の不備でも衝かれてごらんなさい。いったん守勢に回ったが最後、そう易々と形勢を転じることはできないものだ。

上述のヘスと共演しているベートーヴェンの3番は比較的楽に手に入る。聴いてご覧なさい。この曲の冒頭の付点のリズムひとつとっても、正確に聴こえないのである。つんのめって聴こえる。

それはちょうど、コンピュータが演奏したものがイン・テンポに聴こえないのと同じである。

もう少し続けよう。
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英語上達法

2009年08月23日 | 
以前から吉田健一さんの英語論について紹介文を書いておきたかった。ようやくそれを果たす。

僕が付け加えることは無いに等しいから、吉田さんの文章を抜書きしておこう。続英語上達法というエッセイにある。面白いから、できればじっくり読む人が出てくれれば嬉しい。



英語が旨いとか、旨くなるということは、一般には、ぺらぺら喋れることを意味している。その証拠に、そういう英語が旨い人間が外国人、或は極端な場合には、やはり英語が旨い日本人を相手に英語を話しているのを見ると、兎に角、ぺらぺら喋っているということが先に立って、当人は得意満面、人間が人間と話をしているのよりも、軽業師が多勢の前で何か芸当をやっているのに似た印象を受ける。立て板に水というのは、こういうことを言うのであろうか。(重松注、これを読んでひざを打つ人は多いだろう)これを擬音語で表せば
「テケテンドンドンテンドンドン、テンツク、ドンチュウ・シンク?」
これに対して相手の外国人が何か返事をする。或は、それがやはり英語が旨い日本人ならば
「テンドンテンドンテンドンドン、テケテン・アイ・シンク」
そうすると初めの日本人は前にも増して勢づいて
「テンテンテンテンテンドンドン、テンドンドン、テンテケテケテケテケ」とやり出す。
 そしてそれを感に堪えて聞いているのは、主に日本人である。これは考えて見れば、当たり前のことであって、我々は日本人がこのように立て板に水式に日本語でものを言っても、別にその日本人が日本語が旨いなどとは思わず、ただよく喋る奴だと、それだけでいや気が差して来る位のことにしかならない。

     中略

我々は軽薄才子でない限り、日本語を話している際にもそんな、落語に出て来る野太鼓のような口の利き方はしない。併し英語の場合は、それから段々舌の回転が早くなることが望まれていて、そうすればこれは頭の理解力よりも肺活量、それから人間がどこまでおっちょこちょいであり得るかということの問題になり、その困難を克服するのが英語に上達することであるならば、この頃の日本ではよく見掛ける二世の通訳風の人間が一番、英語が旨いのだという結果を生じて、 後略

はじめてこれを読んだとき、笑い転げた。

この人の笑い声が奇妙奇天烈だったため、青山二郎だったかが「お寺の破れ障子」というあだ名を付けたと聞くが、そんな笑い声を出す人だというのも、上に挙げたような文章から窺うことができる。

笑い転げたと書いたけれど、本来はこんな当たり前のことをよくぞ書いてくれたという感謝の念を抱くべきかもしれない。

同じ文章の中に「学校の体操の時間に、並足で進むのに左足を踏み出した時に右手を前に振り、右足の時には左手を出すことがどうしても出来ないものを見掛けることがあるが、そういう人間は幾らやっても、英語に上達する望みはない」とある。ところが吉田さんはこの手の人間だったそうである。

この文章はここだけ読んでも何のことだか分かるまいが、吉田さんが右足が前に出ると右手も前に出してしまう人だったことを書き足しておきたかった。なお蛇足ながらもうひとつ付け足しておく。吉田さんは乞食王子とあだ名されたくらい、吉田茂から独立した生活を送っていて、戦後は着るものにも事欠いて、海軍の水兵服を着たままだったそうだ。米英の当局者の間では「あの水兵服を着てケンブリッジ英語がペラペラの男は何者だ」と噂されたらしい。

繰り返すけれど「英語と英国と英国人」という本を読んでみたらいかが。講談社文芸文庫にあります。僕は面白おかしいところだけを書き写したが、本格的な文明論です。

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電脳

2009年08月20日 | Weblog
いや、パソコンを使ってこうして駄文をものにし、送信ボタンを押しさえすれば何百万人の人が僕の文を読める。考えてみれば不思議だ。それなのにそんなにたくさんの人が読んだ形跡がないのはもっと不思議だ。電車の中で話しかけられたら困ると思ってサングラスを買おうと思ったが、今のところ必要はなさそうだ。

メールなんて、いまどき誰も不思議に思わないで使っているが、一応の理屈は分かっても、じつに不思議だと思いませんか。

かつてファックスが広まり始めたころ、ハンゼン先生に何度説明しても理解を示さない。何、紙を電話機に差し込んで送ると先方に届く?紙がどうやって電線の中を移動するのだ?説明をしても、初めからありえないことだ、という態度だから、理解しようという気持ちが生じるはずもなかった。紙が電線、ありえない・・・と頭の中をめぐるのみ。

僕らは笑っていたけれど、こういった子供のような疑問はもっともだね。今にして思う。こうやって文字を入力する。それが0と1の信号に分解されて送信され、再び文字になる。なんて、いくらそうかと思ったって、よく味わおうとするともう、何だか奇跡のような気がしませんか。

だってね、その信号とやらが新幹線ですっ飛ばしている人のパソコンや携帯に「正しく」キャッチされる、なんだか奇跡に近い。素朴な驚きをもち続けていると、同じ調子でロトやトトに当たってもちっとも不思議ではないと力強く感じてくるから妙だ。

それならば僕を瞬時に素粒子レベルまで分解してもう一度組み立てなおすこともできそうな気がする。ついでに不具合なところを改善してさ。フォントを変えてしまうように、いい男になっていたりしてね。

ハンゼン先生がメールのことを知ったら何と言っただろう。「文字が空を飛ぶ?ありえない!」とぶつぶつ呟いただろうか。

攻殻機動隊という漫画がある。これが結構おもしろい。いやはや、込み入った理論や細部をよく面倒くさくならずに考えるものだ。科学の世界にけっこう詳しい人が描いたようだ。数年前にマトリックスという映画が流行った、そのアイデアの元になった作品だという。

義足や義手があるのだから、未来の世界には体ごと義体というものが売られている。すべての人間の経験は解析され、中央コンピュータに蓄積されている。法で守られているが、特殊任務に当たる者は、他人の記憶や意識の中に接続して探ることができる。

かたや、ロボットは便利さの極に達し、何かの偶然から自我を持ったものまで出来上がってしまう。(これはアニメになった方の設定だった)

その上で物語りは展開していくのだが、こういう話には小説はむかないと思わざるを得ない。

自我の問題が、いかに人間にとって必然的かつ根源的な要求から生じるかを示す「出来事」だが、あまり深くまで考察を進めると何がなんだか分からなくなる。適度なところで考察はやめて、適度な空想をすれば、空想力の旺盛な人は複雑きわまるストーリーを作り上げる。そんな逆説めいたことを思わせる。


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発見

2009年08月17日 | その他
何のためだったか忘れたが、過去の記事を見直していたら、載せたはずの写真が消えているのに気づいた。

ご承知の方も多いと思うが、ブログ作成のページには画像フォルダというのがあって、そこに選んだ画像をアップした後、記事に貼り付ける。

と書きながら、分からないことを書いているので冷や汗が出る思いである。その点政○家や○楽家は偉いものだ。肝がすわっているね。

僕はどうもパソコン操作というものがいつまでも苦手である。時折訳も分からずに、警告が出たり、不正な操作があったので強制終了します、とかで電源が落ちたりする。するとうろたえる。被疑者取調べ室で、してもいないのにやったと自白してしまうと言いますね。あれは絶対にあり得る。

急に場違いな方向に転調したけれど、そのくらい「不正な操作」というのは気持ちを乱すね。いったい俺が何をしたんだ、と叫びたい。弁護士に頼む問題ではなさそうなので、ひとりパソコンに向かって呆然とし、しばしの後毒づくのはじつに馬鹿げている。馬鹿げていると自覚しつつも、気持ちの収めようがない。

しかも電源が落ちると僕は書いたけれど、パソコンの世界ではそんな古典的表現は使わない、ログオフとか、小癪な文字が画面に現れて、その後プツッと消える。まったくもっていまいましい。

ずいぶん前の話になってしまうが、パソコン取り扱いの用語を日本語表記にしようという試みがあったが、あれはいったいどうなったのだろう。なにも戦時中の野球が英語の用語を一切禁止したように、すべてを日本語表記にしたらと言っているわけではない。

でも、いちどヘルプページなどを見てみればよい。java何とかをオンにします、とか、不親切極まる助けしか(もう意地でもヘルプとは言わないぞ)書いていない。

その上、パソコン関係の売り場に行ってごらんなさい、店員は知らぬ人は人にあらず、というように、専門用語を使い放題だ。懇切丁寧に話す店員なぞどこにもいない。こちらは困惑するばかりだ。

例えば。

MPEG-2 TS圧縮による1125i / 1080iのデジタル・ハイビジョン放送が行われている。解像度は1440×1080i(一部の局は1920×1080i)、最大16.8Mbps(データ放送・音声を含む。GI=1/8,64QAM3/4,12Segs時)のビットレートでほぼリアルタイム圧縮されている(なお、1920×1080iでの放送も多いBSデジタル放送は、最大24Mbps(データ放送・音声を含む。24スロット時)のビットレートとなっている)。しかしMPEG-2より高圧縮な動画圧縮規格であるH.264の使用によってさらに高画質化が可能な次世代DVDと比べた場合、画質は劣る。なお、ハイビジョンで制作されていない番組はアップコンバートによりピラーボックス形式で放送されている[5]。

以上、ネット上の記事を引用したが、読みづらくて敵わないでしょう?僕が分かるのは(これが何か知らないけれど)画質がDVDより劣る、これだけ。これに比べりゃ僕の文なんて、一応日本語だから読めると思いませんか。僕が書くことが難しいという声を聞くこともあるので。

引用したのは数分前に適当に選別したのであるが、何の記事だったか忘れてしまった。ああいうのが列挙されているページを見るのはいやなものだ。音楽雑誌の記事を見るのの次にくる位いやだ。

そうそう、アップした(こういうのも歯が浮くよ、愛してますなんて言うのと同じくらい浮くよ。歯槽膿漏になったらどうする)写真はそのまま画像フォルダに残しておかないといけないらしい。整理整頓が好きな僕は、記事を公開したら写真は無用だから画像フォルダからさっさと削除していたのだ。すると記事の中の写真も消える仕組みらしい。

文の方は画像があることを前提に書いているわけで、さぞかしトンチンカンな印象を与えていただろう。

しかし、よく画像が流出とかニュースになっているでしょう、にもかかわらず、一旦公開された記事の中の画像が忽然と姿を消すのは何だか解せないなあ。貯金通帳にいくら残高が印字されていても、実際にはカードで使ってしまって無いようなものかなあ。

ところでどなたか、ふつうの日本語で、大きい画像を好きな場所に載せる方法を教えてくだされば有難いです。本当はもう少し大きな写真を載せたいと思うのに、どうしたらよいか見当もつかない。それができたら以前の記事にも色とりどりの写真を貼り付けてみよう、と楽しみだ。なにせこのブログは色気がないからなあ。

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2009年08月14日 | スポーツ
今年のツール・ド・フランスに(百年の歴史を持つこの大会に)日本人として2選手が初の完走を達成した。以前紹介した新城(あらしろ)幸也、別府史之の2選手である。

3週間にわたり、毎日200キロメートル近く走り、山岳ステージで時には標高差2000メートルというとんでもない峠を連続して走破する。完走するだけでも大変なことだ。

フランスでも日本人が出場するということだけで話題になっていた。話題になっていることの大きさを僕たちはあまりピンとこないかもしれない。

有名な(なんて書くのは、足掛け10年ヨーロッパにいたのに、フランスに行ったことがない田舎者だから)シャンゼリゼー大通りが全面通行止めになるのは一年のうちで、革命記念日とツール・ド・フランス最終日パリゴールの日、2日のみだと言えば少しは通じるだろうか。

現地のマスコミからも大いに注目されていたようだが、残念ながらフランス語がまったく分からない。フランス語らしい、ということだけ分かる。

デカルトは、ただひとつ確実なのは自分が何かを考えているということだ、と考え、そこから一歩一歩考察を発展させていった。(詳しくは「方法序説」を読んでください。タイトルは厳めしいが、誰でも素直に読める)

しかし、フランス語である、ということから考察しようとしても、そこから先は一歩も進まない。

仕方なく、You Tubeで新城選手の日本語のインタビューを見た。

この青年はとても感じの良い受け答えをする人だと思った。

全ステージ終了後のインタビューでは、完走を果たした最初の日本人(別府選手と同時に)としての感想を何べんも訊ねられていた。

質問者はそれに対する喜びの言葉を期待しているのが手に取るように分かる。また、21日間で疲れ果てたという感想を手にしたいらしい。

ところが新城選手は自分の言葉を探すようにしながら「疲れは大したことがなかった」という趣旨の発言をする。

その辺りの呼吸が見ていて面白い。選手からしたら、取材を受けるのは当然としても、煩わしいだろう。

初の出場で感動したであろう、と決めて掛かる質問も多かった。そこでも、意外だがスタート前日のほうが多少の感動はあったが、いざ始まると普通のレースが始まっただけだった、と当たり前の答えが返ってくる。正確な答えで、僕は感心した。

最終日にシャン・ゼリゼーに入って来たときの感動も、インタビュアーとしては何が何でも聞きたいところだっただろうが「周りから鳥肌が立つぞ、と言われていたけれど、いざその場にいると特別の感慨はなかった。石畳の感触に、何だ、これは、と思う気持ちのほうが大きかった」と実に正直なのである。

自分を「感動の渦」に巻き込むような心理操作をしない、こういう実際的な精神を持つ人はきっとこれからも強くなると思う。

それにしてもスポーツについて書くとどうしてもマスコミの未熟さに触れないわけにはいかないのが残念だ。

(別府選手は期間中、楽しんで走った様子なのに)新城選手は日に日に辛そうで楽しんでいないように見えたが、と振られて「そんな風に見えましたか、それなりに楽しかったです。どこを「楽しい」というか、それは分からないですけれど」と、ここでも正確な答えが返ってくる。

○○を楽しむ、これはきわめて要注意な言葉だ。周囲が不用意に使う言葉ではない。ましてや楽しんでいるように見えないなどと口が裂けても言ってはならないはずだ。

新城選手は(日本では)マイナーなスポーツの選手らしく丁寧に答えていたが、こうした取材が度重なれば、他人事(ひとごと)だと思って楽しむという言葉を軽く使わないでくれ、と言うかもしれない。



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人気と本質 2

2009年08月12日 | 音楽
観念で聴くということが分かりにくいと思うから少し説明してみよう。

さいわい船場吉兆の記憶もまだ新しい。あそこで流石は吉兆、味が違うと唸っていた人たちもいたわけだ。演奏の好みがある人なんて、そんなにいないものだ。船場吉兆で流石は違うとうめいて舌鼓を打っていた人を笑うことはできないのである。それは当然だ。そこで音楽批評家の出番がある。聴衆はその意見に従って聴く。

いや、自分は自分の耳で聴く、と自負する人もいよう。それについて、実も蓋も無い言い方をしてしまえば、演奏を聴くのはただだからだ。買い物と違い、懐を痛めない。きつい言い方をすれば、言い張ればすむ。そもそも、まったく無名の人を、なんの先入観もなく「才人」と認めることはできないだろう。

そこが例えば骨董と違う。僕がいくら古道具類が好きだといっても、自分の分をわきまえている。間違っても自分に眼があると思うことはない。自分の懐具合をよく知り、自分の眼の甘さを知っているからこそ、大口もたたかず、安全なところで満足している。

僕が過たぬ自信があるのはピアノである。次に確信に近い感覚をもてるのが絨毯と家具だ。絵画、器に至っては、何でも鑑定団で本物に間違いないと大金をはたいて、実は真っ赤な偽物で顔から血の気が引く人を笑えない。

音楽から楽音を取り上げたらどうなるか。

言うまでもないけれど、楽音は簡単に取り上げられてしまうものだ。同じ曲だと思っているのは、実は頭の中で作り上げた観念的な音かもしれない。

たとえば、吉田秀和さんはドイツ語も堪能だし、音楽に「詳しい」し、ひとつドイツリートの夕べを持って欲しいものだ、といった声がなぜ起きないのか。あるいは英語の先生まで勤めた丸谷才一さんにいたっては、声まで大きくて有名ではないか。ひとつブリテンの歌曲をお願いしましょう、となぜならないのか。言うまでもない、彼らの声が音楽として聴くに耐えないからだ。

少なくとも、僕が異論をはさんでいるのはこの程度のレベルのことだ。現代人の好みも何もありゃしない。前回、現代の好みという問題ではない、と書いたのはそういう意味だ。いずれの日にかそんな「演奏会」でも人気が出るのかもしれない。その暁には「勝手にしてくれ」と言いましょう。しかし、今がそういった時ではない以上、聴いたものを聴いたという以外ないのだ。

そこでの認識は同じくするからこそ、吉田さんのみならず、幾多の評論家が聴衆を「導こう」と健筆を振るっているのだろうし、審査員を務める音楽家もいるわけだろう。

僕が異論を唱えるのも、まったく同じ「義務感」からさ。言わねばならぬことを言っておく。あとのことは知らない。時の流れは恐ろしい。あらゆる権力者も、表面上そう見えるだけだ。わけもわからず流されていく。

ギリシャの音楽は偉大だったに違いない、と推察する以外に方法がない。辛いことだ。モーツアルトもバッハも同じ運命を辿らないと誰が言えよう。もしそうなったら僕はたいへん残念に思う、という気持ちを素直に音楽の現場で言葉にしてみたら、ショパンコンクール云々という言い方になった。

僕は僕が愛着を持った音楽に執着しているだけのことだ。同時に、そういう風に執着している音楽家だけは大変に少なくなったように思われ残念なのだ。
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人気と本質

2009年08月10日 | 音楽
コメントに対して返事を書くにはずっとそのページに留まらなければならないようで、長く書く必要がある場合や、まとめる時間、気力がない場合不便を極めるから、記事にしてしまうのがいちばんだ。

大分前に書いた「録音と実音 2」に伊藤治雄さんから寄せられたコメントは、ひとつの典型であり、返事を書こうと思ったのだが、たいへん時間がかかりそうなので記事にしてしまおうと思った。思ったは良いが、今頃になってようやく書く気になった次第。忘れてしまった人はもう一度読んでくださいな。ここに引用しないのは不親切かもしれないが。

「人気と本質」なんて書いたけれど、その両者の違いなんて僕には関心がないのである。そもそも音楽の(ある楽曲の)本質が何か、という問い自体は無意味であろう。

(重松は)音楽史的な偉大さを人気と言っているのだろうか、という伊藤さんの問いには、こう答えてみよう。仮に初演が今のような、優雅さも真の感動も見受けられず、機械化された「感情もどき」の演奏だったならだれの心も動かさなかったかもしれない、と僕は感じてしまうと。心が動かぬ以上、人気も出るはずがない。

僕が「今日のショパンコンクールのような演奏だったらショパンの諸作品は人気なぞ出なかったろう」というのは、非常に明快にいってしまえば、今日のピアノ演奏は美しくもなんともないということだ。なんなら僕にとってと付け加えても良い。でも、僕らは昔演奏会に行った後「綺麗だったなあ」とため息をつきながら家路についた。今人々は「凄かった」と言う。この差はなんだろう。これは大きな違いではないだろうか。凄かったという言葉から、僕はボクシングの試合の後のような興奮しか連想できない。そして本当にそんな聴き方をしているのである。これでもか、これでもかと繰り広げられる「技」と「感情」は、ボクシングというより、アメリカのプロレスに近い。

現代の好みという問題ではないのである。現代に生きる僕らは「名曲」であるという「保証」の上で聴くからあとはどうにでも理屈がつく。

僕は「審査員たち」の耳なぞ信用しない。聴衆はそれにもかかわらず、あるいはそれに追従して(偶然の出来事だという点において、これらは同じことなので、区別する必要はない)喝采する。もちろん僕はその「自由」を否定はしない。そんな傲慢さを持ち合わせてはいない。

ただ、臆病な自尊心にかられた音楽家と、よいものを紹介しようという善意に溢れた批評家に異議申し立てをする音楽家もいるのだ、いなければおかしいだろうと言うだけのことだ。

ショパンの時代と例えばコルトーの時代ではまったく違った演奏だろう。楽器自体も大きく異なるのであるから当然だ。

どんな音楽でもそれに固有の音を持っている。ビートルズが同じ曲をリコーダーを携えてデビューしたと想像してみればよい。笑う人すらいなかったはずだろう。ただ無視されただろう。もちろん何かの拍子に喝采されることはありえるさ、明日も知れぬ世界だからね、人間世界は。

万が一リコーダーで喝采されたとしようか。その時はビートルズという存在は僕たちが知っているものではないのだ。今日それをやったら笑う人が出るのも、ビートルズとエレキギター、という既知の音に「保障」された世界だからではないか。

そして何より忘れないで貰いたいのは、僕も現代人だということさ。僕が昔の演奏家の名前ばかり挙げるからといって、懐古趣味だと思われるのならば残念だ。もちろん、そう受け取る人がいてもちっとも構わない。でも僕がコルトーの名前を挙げたのは、現代にもコルトーがいて欲しいといった意味ではない。

現代人は現代の好みで聴くのではないか、と伊藤さんは言う。それは意見としてはまったく反論の余地がないほどまっとうである。反論もへったくれもない、常識だ。もう一度繰り返すけれど、僕も現代人だ。ただ、僕はそれについて語っているのではない。好みがあるひとなんか本当にいるのかい、と訝っているのさ。

ちょいと長すぎるから、後日続きを書きます。




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三善晃のメソッド

2009年08月07日 | 音楽
作曲家三善晃について深く書く用意はない。語れるほど勉強したわけではないから。いくつかのピアノ曲、合唱曲等を通じて、たいへん器用な人だという印象を持っている。世評のような天才とは思わない。というか、いかに有能な人でも周りに恵まれなければ成長するのは難しいとつくづく思わされる人だ。

それは無責任な評、僕だけが合点する印象評(この胡散臭い言葉については少し前の吉田秀和さんに触れた文を参照してもらおう)の見本かも知れないと断って、さて本題に入る。

この人は音楽教育に真剣に取り組んでいる。数年前に自身の初心者向け作品集を出した。三善メソッドと呼ばれるらしい。作曲家三善晃について書く用意はないと言いながら、結局書いているが。

ずっと以前にテレビの幼児向け番組に登場して、子供たちに音楽教育を施している姿を見たこともある。

そのとき大変痛ましい思いがしたのを忘れない。

この人は音楽について、何か大切なものを感じている。しかしそれが何かを知らない。また、現代では音楽にとって大切なものが失われつつある、という危機感を持っているらしい。

不器用に子供に語りかける姿を見ながら、そんな感想が勝手に出てくるのを抑えられなかった。

ただ、子供に接するにはこちらが構えていてはいけない。三善さんは元来は子供が苦手だろう、僕はまた、そんなことも思った。

一所懸命打ち解けようとすればするほど彼の不器用さだけが目立つのだ。それも彼が音楽に対して誠意とある種の危機感を持つところから来るのだから気の毒ではある。

三善さんはここで話題にしたメソッド以外にも子供向けの曲集をたくさん作っていて、コンクールの課題曲になることが多い。
ここでの三善さんの作品群は一定の評価を、いやたいへん高い評価を受けている。

僕は、三善作品を評価しすぎるのはよろしくないと考える者である。相変わらず器用だ、センスが悪いわけではないな、というのが正確な感想だ。世の中の多くは素晴らしいセンスだというだろう。

しかし子供が好んで弾く曲だからといって頻繁に弾かせるのはどんなものだろうか。

少なくともそういう根本的な議論があまりなされていないのは相変わらずの日本だと思う。

そもそも、三善さんは現代の音楽事情の何に対して危機感を持っているのだろう。僕には分からないのである。

ただ、彼が作る子供向けの曲の数々から推察すると、現代の(少なくとも日本の)演奏家、殊にピアニストは表情に乏しいという気持ちを抱いているのではあるまいか。あくまで僕の推測であるが。

だから彼が作る子供向けの曲は、そうだなあ、強いて言えば形容詞のオンパレードとでも言うべきものになる。

僕が現代日本の演奏界に感じている最大の問題は、演奏家が「表現しよう」という観念の虜になっている点である。表現をしなければ、しなければと焦燥感すら持っていることにある。

三善さんはきっとそう感じてはいない。表現しようという気持ちがなくて、あるいは空想力が欠けていて、そのために無味乾燥な演奏が多いのだと思っているのではないか。

もしそうではないのならば、彼が新しいメソッドを出して、その普及に並々ならぬ意欲を示していることが理解できなくなる。

文章と同じく、音楽も形容詞が多くなりすぎて、そこに気持ちが傾中するだけになると骨抜きになる。

洒落た形容詞の見本市のような三善作品は、いわばうわべの表情を作る日本の演奏教育に油を注ぐ結果となっている。僕の意見は以上である。

三善さんがどのような耳を持っているのか知りたいと思うのは僕だけであろうか。
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