季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

農耕民族

2015年04月26日 | その他
何かにつけて、日本人は農耕民族だからと言う人がいる。農耕民族だから大人しく、争いを好まないといった具合に。

でも、そんな風に単純なカテゴライズをするならば、農耕民族はむしろ好戦的だとも言える。あるいは戦いを余儀なくされていると言っても良い。

狩猟民族はある時には近隣の村と協調して森の獣の保全までしなければならないが、農耕民族は作物をより多く得るためには他所の土地を奪い取る必要があるのだから。

要するに我田引水はよろしくないということだ。しかもたった一つのキィワードであさっての方向に向かってしまう。気をつけたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アグレッシブ

2015年04月21日 | スポーツ

僕は時折何周も遅れて興味を持ったりする。

例えばF1。遥か昔に大ブームになったが、僕は全くの蚊帳の外であった。

皆が騒ぐと関心を示さなくなるのは僕の依怙地さかも知れない。渦巻きが去った後ノコノコやって来て面白がっているのである。

そんな訳でテレビ観戦していて思い付いたことなのであるが。

自転車にせよ車にせよ、ほぼ同時代に発明され実用化された。すると時を経ずしてツールドフランスやカーレースが考案される。

考えてもご覧なさい。昔の自転車なぞ、変速機も無く、そもそも車体が重いのである。それにまたがってアルプスの山々を超えて行くレースをつくる。

レーシングカーだって今日写真を見ると、よくまぁ無防備に近い格好で、上半身をさらけ出して猛スピードで走ろうと思い付いたものである。

当然のことながら、何人もの死者が出ている。にもかかわらず連綿として今日まで継続している。続いているどころか、世界三大スポーツに名を連ねている。これは我々には理解しようにも出来ない相談ではなかろうか。何というアグレッシブさだろう。

我が国でも色々新しい遊びや種目くらいは考えだされる。違いは、もしも死者が次々に出たらおそらくそのイベントは撤廃されるだろうということ。

一般に文化を言うとき、文芸や思想、政治が語られる。上記のような視点を絡めた論はきわめて少ないように思われる。きっとどこかで語られているとは思うのであるが、僕のような素人の目には主流になったもの以外は目に入らないのである。

音楽と直接の関係はないが、肉体的な強靭さに目をやった時、深いところで繋がるのを感じる。

こうした「強靭さ」は以前紹介した「砂漠の思考、森林の思考」と関係するのではないか。そこでは砂漠の民は道を選ばなければならぬが、森林の民は自然の懐に抱かれ、究極の選択は避けて通れることが説かれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何が違う?

2015年04月20日 | 音楽
僕が立っている。まあ生きているし、幸いまだ元気だからな。
立っているからには僕の体は大変な力を蓄えている。では僕は力を入れているのか、といえば違う。力が入っていることと力を入れることは違うのだ。
だが、もし気力がなくなって座り込んだ人を立たせようと思ったら「力を入れて」と言うしかあるまい。
こんなことを断る必要があるほどに技術を伝達することは難しい。腕がひも状になっている人には「力を入れろ」と言うしかないのだが、ここでも力が漲っている状態と力を入れている状態とでは本当は大きな違いがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする