季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

無知

2021年07月07日 | その他
僕はほとんど外食をしない。特にファミレスや回転寿司に行くことはほぼ無い。

人並な生活に憧れ回転寿司に初めて行った時のこと。

クルクル回るものが鮨だということは無知を誇る僕でも理解した。

周りの人々を見て、ベルトに乗せられた皿を勝手に取り上げ、食べ終わった皿はうず高く積み上げておけば良いと理解もした。

腹が減っていると随分なテンポで平らげるものだ。つまらぬ事に感心していると前方からプリンが乗った皿がゴトゴトやって来るではないか。

僕は甘いものが好きである。昔村に住んでいた時分、隣家に上がり込んで鍋一杯のあんこを手づかみで食べていたそうだ。そうまでして口にしたかったほど甘い食品に飢えていたのだろうか。

もちろんようやく歩くようになった幼児期だが、勘違いする人もいるから断っておく。

鮨とプリンという妙な取り合わせよりもプリンを食べたいという反射的欲求が強かった。サッと手を出し平らげた。

別段美味いとも思えないが、甘くはあった。口の欲求が満たされると精神に余裕が生じる。

落ち着いて見るとパフェだのメロンだのがしずしずと回っているではないか。これが回転寿司なのか!

僕同様精神的に余裕を取り戻した家族が急に声を潜めて、ちょっとまずいよ、と言うのである。

だいぶ離れた所にいる親子連れの一団を目配せするのでそちらを注視した。子供が店員に「プリン」と注文しているではないか。

プリンやパフェなどは注文してからベルトに乗るらしい。してみると先程僕が食べたプリンは誰かが、多分子供が注文したものだったのだ。

子供が注文して来るのを待っていたプリンはどこかの変なオッサンが横取りしてしまったのであった。

もしかしたら僕が横取りして食べているのを恨めしそうに見ていたかもしれない。携帯で撮影していたかもしれない。当時は多分ツイッターは無かったのではあるまいか?それを祈る。

後で検索してみよう。

この手の失敗談なら山ほどある。


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野の花

2020年05月01日 | その他



近所の空き地に生徒用の駐車スペースを借りている。雑草が生えると各自がむしる。

先頃生茂った草をむしる人を見かけた。今日ふと気付けば花をつけた草だけはむしられずに残っている。こんな殺風景な空き地でも色々な草花がひっそりと咲いていたのだ。花だけを残してくれたおかげでそれを知った。粋な計らいに感謝する。
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マニアックな人々

2020年02月18日 | その他
僕がかなりアバウトな態度で諸事に係わっていることは本ブログを読む人ならば察しがついているだろう。

本人を知る人にとっては察しがつくどころか、せめてもう少し人並みにできないかと歯がゆい思いだろう。

僕が専門とする音楽の領域内でも、どうしてか自分でも分からないが、綿密に学習して調べ上げる作業が苦手である。

自分でも分からないと言いながら、理由はハッキリしている。なぜか。簡単に言えばつまらないのだ。

あれこれ直感的に捉えたり空想に遊ぶのは大変好きであるから、性分といったほうが良いのかもしれない。

ところが、対象が世の中全体ともなると、あまりに入り組んでいて、ちょっとやそっとの山勘ではとてもとても扱いきれない。

ネット社会の弊害はたしかにあるだろう。きっと僕が想像もできないくらい大きな問題もあるだろう。

しかしひとつ確実にいえることは、あらゆる分野にあらゆる種類のマニアックな人がいる。そして彼らは自分の知識を他人に示したくててぐすね引いているということだ。

それらの厖大な知識をネットという媒体は僕のようなアバウトな人間に提供してくれる。

以前触れた少年犯罪のデータも、これをマニアックと呼ぶことが正しいか疑問だが、ある人が国会図書館に入り浸りの状態で、手に入る限りの地方紙や書籍を元に作成しているものだ。

このサイト無しでは僕も「最近は青少年の残虐な犯罪が増えた」と思い、あらぬ所にその原因を求めたかもしれない。

目を音楽関係に転じても、ルネッサンス音楽だろうと音律関係であろうと、つまり音楽家である(つもりの)僕が良く知らないことを驚くほどの綿密さで調べ上げ、アップしている人が多いことに驚く。

こういったことを根詰めて仕上げるタイプの人は、実生活ではもしかしたら僕が苦手な感じの人なのかもしれない。でもその結果だけを素直に受け取れば良いではないか。

それに、苦手ということを言うならばショパンにしたってワーグナーにしたって、僕が苦手な人種だろう。

マニアックな人を指して言うオタクという言葉には何かしら言い難い侮蔑の念が紛れていないだろうか。

オタクの極めて細部にわたる愛好や知識を、大きな全体に達しないと嗤う同じ人が、自分達は社会の歯車にしか過ぎないと憤慨する。僕には既に理解し難い感覚なのだが。

確かノーベル賞受賞者の利根川進さんが言っていた。研究チームには最終的な局面では今ひとつだが、全体を見渡してゆく能力に長けた人の存在が大変大事なのだと。

これはオタクと全体の関係が逆転してはいるが、世の中全体にわたって成り立つではないか。細部へのこだわりと全体への直感、いずれが欠けても駄目なのだ。





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鼻をくすぐる

2019年09月26日 | その他
オリンピックでのトライアスロンの水泳コースは東京湾だそうだ。

ところがここは下水が処理しきれずに流れ込むことがあるのだという。つまりトイレ臭い臭いが漂うのだそうである。

それに関する雑誌の記事がネットニュースに流れてきて、見るともなく見て吹き出してしまった。

記者は現地に行って確認し報告しているのであるが、「トイレのような臭いが鼻をくすぐる」と書いている。

ふむ、ほとんどの人は吹き出すだろうが、ものを書くのが商売の人がこんなことを書く以上、鼻が曲がるほどの芳香なんて表現を目にするのは遠い将来ではないのかもしれない。

鼻が曲がるほどの、、を使って短文を作りなさい。
土用の丑の日、うなぎ屋の前を通ったら鼻が曲がるほどの美味しそうな匂いがした。

よく出来ました。こんなになったら嫌だなぁ。

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数値化されたもの

2019年08月05日 | その他
前の記事で神奈川県立音楽堂の音響設計者が素晴らしい音響は半ば偶然の産物だと発言していたことを紹介した。

科学的に計測されたものが全てではないという思考に今日では殆どの人が賛同するだろう。我々の時代は人間的という言葉に飢えているのだ。

しかしこれは、数値化したもので全てを律することができるという観念と真反対の観念的な理解でしかない。具体的な事象においては僕らは驚くほど数値化されたものに屈服している。

僕の家のことを書こうと思う。

バブル期真っ只中、有名工務店に注文して建てた。その際もっとも気を遣ったのはいうまでもなく近隣への音漏れであった。

担当者は自信満々、お任せ下さい、当社は音楽家の家も数多く請け負っていますと胸を張り、僕は安心していた。

引渡しも終わりピアノの搬入も済んでいざ弾いてみて愕然とした。数軒先の家までハッキリと聞こえるではないか。これでは夜弾くのはほぼ不可能に近い。

早速工務店に来てもらいこれでは困る旨を伝えた。

支店長と設計担当者もやって来たが、バブル期とはこんなものだったのであろうか、設計者は何と立地の条件を見ずに図面を引き、我家に来たのはその時が始めてなのだった。

周囲を見回すと、あぁこの条件では音は聞こえますねとことも無げに言った。

僕は非常に強く抗議して音楽室の遮音はやり直させることにした。費用は工務店と折半ということになった。

数日後詳しい工事内容と見積もりが来て又々たまげた。

使用する材料個別に何デシベル遮音効果があると書かれ、夜まで音出し出来るには天井、壁、床全てをあと数十センチ厚くする必要があり、費用は八百数十万円かかるとあるのだ。全ての面が数十センチせり出してくる!まるで潜水艇ではないか。

ふざけるな、僕の経験からすると音は主に窓から漏れる。窓枠に問題があるのだ、ここだけでほぼ問題ない筈だ。僕はそう主張して押し通した。普通の窓枠ではない、遮音効果が高いものがあることを僕は知っていた。それを使うように具体的に指示したわけである。

結果は数値化されたもの、つまり僕の指示では到底音漏れを防ぐ事は出来ないという工務店の意見とは相違して、真夜中にピアノを弾いても殆ど外には聞こえないようになった。

その後遮音工事を施す生徒たちは僕のレッスン室に倣っているようだ。効果も同じくほぼ完璧だという。

設計アドバイス料を頂くことにしよう。



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足し算の順序

2019年06月25日 | その他
全ては基礎が大切だ。これに異を唱える人はいないだろう。

ただ、この手の議論で注意が必要なのは、基礎とは何かという問いかけがなされないまま話が進行してしまう点だ。

さて専門外のことを書くのだが。

ネットで見かけるばかりか生徒たちからも聞き及ぶのだが、小学生低学年の算数で足し算において順序が決まっているという。

4個饅頭を買ったらおまけに1個貰った。幾つになったか、という問いに4+1は正解だが1+4は不正解だと。

これが僕には分からないね。

大人なりの理屈はつく。しかしですよ、わーい、1個おまけに貰った!という喜びを感じた子は1を先に書くかもしれないではないか。

全部で5個になるということが理解出来ていれば良いだろうと僕は思う。ここで難しい理屈を唱えて訳が分からなくする危険は無いのか?算数の敷居を高くすることが目的ではなかろう。

数学者も二派に分かれているそうだ。厳格派の人に訊きたい。アンタ、そんなことで万が一躓いたら数学者になれなかったかもしれないぞと。

アバウトに理解して進めるうちに緻密さが生じることも多いのである。緻密さが必要ではない場合にはそのままで構わないのではなかろうか。

水槽に金魚が4匹います。1匹買ってきて入れたら何匹になりますか?この問いも同様4➕1でなければならない。その理由を説明するに金魚の気持になってみよう、というのがあったそうだ。

1匹のところに4匹増えたら心細いとでもいうのかな。金魚は果たして心を有しているのかという遠大なる問いは今後の研究を待ちたい。

しかしね、そこまで気持を前面に押し出して説明するのなら饅頭の例を挙げて、わーい一個増えた!という喜びはなぜいけないのだ?僕だったら1➕➕➕➕4とでも書きたくなるぞ。

教育を大人の自己満足の道具にしているのではないだろうか、僕の素朴な疑問なのである。この計算順序問題は当初は掛け算の順序問題だったらしい。それについても素朴な疑問を記しておきたいが、先ずここまでを投稿しておく。




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組体操記事

2019年02月04日 | その他
今朝のウェブニュースで組体操を疑問視する神戸新聞の論説委員の記事を読んだ。

これなどは組体操を疑問視する人がうっかりすると引っかかる論説だなと思った。

筆者は組体操の成果に拍手を送る側だったという。しかし神戸の組体操事故が他を圧倒して多いところから取材したようである。

取材の過程でルーツは軍隊の鍛錬にあることを知った。陸軍幼年学校ではピラミッドは四段であったとかタワーは障害を乗り越える訓練と酷似しているとかを記している。

結語は、組体操のルーツを知った自分は複雑な気持ちである、という。

ルーツが軍隊での訓練にあるから諸手を挙げて賛成しかねるとつい思わされそうである。しかしルーツを言って疑問視するならばあらゆる技術は兵器由来なのだ。

記事中では勿論安全性を問い、教育関係者の、実は自分も心配しているとの言葉にも触れている。しかも死亡事故さえ10件ほどあることまで言及している。

僕の家にほど近い学校でもピラミッドが崩れて死者が出ている。このような見世物が教育の名の下に一向に改まらず行われていることを疑問視するにはこうした例だけで充分すぎるはずだ。

組体操のルーツとは全く関係なく、死者まで出す教育そのものを問うべきなのである。よく言われる達成感があるといった「教育的」配慮なら他のことで代替できるではないか。

安全性をテーマにしながらいつしか他のことに移行してしまうかのような論説はいただけない。


僕としては組体操の大技に感動していたというこの論説委員のおセンチさに強い違和感を感じてしまう。同時に記事中にある教育関係者の不甲斐ない態度にも呆れている。

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スタンフォード監獄実験 その後

2018年12月29日 | その他
スタンフォード監獄実験というのを以前紹介したことがある。ランダムに選んだ被験者を監視役と囚人役に分け、それぞれに相応しい「演技」をさせていくと自発的にその役割を果たしていく、という大変有名になった実験だ。

人には生来残酷になり得る性質がある、それを裏付けるとして様々な取り上げ方をされたという。

その実験に対して疑義を呈する論文が発表された。

詳しく知りたい人はスタンフォード監獄実験 捏造報道とでも検索したら直ぐに見つかる。


厄介なのはこの手のレポートが真実である証拠もまた僕にとっては無いという点だ。それにだけは気を配った上で読んでもらいたい。

社会学系の研究というものは得てして政治色を強める。人の言動を個人から引き離し全体を語るからどうしてもその傾向は強くなる。

学問である以上、その一番難しい処を常に意識しながらな綱渡りのような緊張を強いられる。その困難さを思わない人は研究者として落第である。

そうであるはずにもかかわらず容易に踏み外す。対象への関心が強いほど結論を急ごうという誘惑に打ち克つのは難しいらしい。

それどころか最近偶然目にした上野千鶴子氏の言だが、自分の主張に不利益をもたらすデータは隠しても良いと言い切る。その上それについては他の著名な学者も是認したとあった。

こうなると社会学とは政治運動と何ら変わりないと言え、学問の体をなさないのではなかろうか。

同じ理屈で企業なり自治体なりは不利なデータを隠蔽することも良しとせざるを得ないではないか。学問と言いながら学問を殺しているのは当の学者なのかもしれない。

監獄実験に疑念を呈した記事によれば、実験を主宰したジンバルドーにおいても、まず当時の刑務所の環境に対する批判があり、それをアピールするために劇的な演技をするように強いたのだという。その上、彼自身も所長として実験に参加していたそうだ。被験者はジンバルドーの望んだ「演技」をしなかったとは言い切れないだろう。








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自動運転

2018年12月23日 | その他
車の進化と呼ぶべきなのか。
自動運転の技術が進んでいるのだそうだ。

新技術の裏には必ずと言って良いほど難問が控えている。それも全く予期しないところに。

例えば次のような倫理上の難題が生じているのだそうだ。

衝突を回避するために急な進路変更をする。その作動は人のそれより遥かに正確且つ素早いだろう。

だがもし変更された進路に歩行者がいたとしたら?歩行者は一人で衝突する車には何人もの人が乗っているとしようか。

コンピュータはいずれを選択するのだろう?犠牲者の数だろうか?考えたところで結論が出るとは到底思えない。

この様な深遠なテーマは一般人の手に負えない。ここからは演奏する立場の人として発言しよう。

なんて気取ってみたが。

この手の論者は結構いるのだね。ここでは大学教員としての私が語るとかぺんぺん草としての私が語るとか。

そもそも自動運転中に事故を起こした場合でも責任は運転手にあるらしい。(運転していないのに運転手というのかな?)

それと関係してだろうか、自動運転中も手はハンドルに添えておくことが大切なのだ
と何処かで読んだ。

これは随分間抜けな図である。しかしいくらコンピュータが操縦しているとはいえ、いつ何時想定外の事態が引き起こされないとも限らない以上、たしかに大切な事だろう。

しかし考えてみよう。ハンドルに手を添えただけで不測の事態に際し反応できるものだろうか。

ピアノの鍵盤上に手を乗せて急に弾いたら教師は注意するではないか。弾く前に息をしなさいとか予備動作をしなさいとか。

人間の体はそのようにしか動かない。そうである以上、運転手はある種の身構えをもってハンドルに手を添えた、いや添えただけではだめなのだ、握った状態で座っている必要がある。

そうだ、足だってペダルに着けておかねばいざという時には間に合わない。何のことはない、今まで通りではないか。

さてそこで最初の倫理的難問に戻ろうか。

不測の事態に際しコンピュータは倫理的難問を瞬時に解析し歩行者を守るために衝突を選択したとする。

だが運転手はこちらは倫理とは無関係に本能に従って歩行者の方にハンドルを切る。歩行者に気づかないことだってあるのだから。

こんな時に車はどの様な挙動を取るのだろうね?

僕は今のところ縁のない話さ、とニヤニヤしてしまうのだ。



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語学教育(補足)

2018年09月20日 | その他
ずっと以前の語学教育について今更ながら書き足しておきたい。

その時のコメント中、恥をかいても良いではないか、という言葉があった。僕がただ英語を話したところで恥をかくだけになりかねないと書いたからだ。

知らぬを知らぬとせよ、これ知るなり、と孔子が言ったけれど、この意見はその意味で大変正しく?オーソドックスなものである。僕も全く同感だ。

ただ、僕が言ったのは遥かにはるかに下世話なものであって、かいた恥から学ぶものなんぞどこにもない種類のことだ。

今日世界中の重要な意見、発言は殆んどが翻訳されている。生半可な語学力で首をひねりながら読むよりもはるかに効率よく学べる、という意見がある。それに対して僕はいかにもそうだ、と答えることしかできない。そんなことだ。

英語(外国語)教育が必要なのは、昔は言うまでもなく西洋化を迫られ、学ぶためだった。今日ではやや事情が異なる。受け身ではなく、発信する力が(この言い回し、僕はあまりに今日的過ぎて好きではないなぁ)必須だからではないだろうか。政治、経済は言うに及ばず、単なる旅行に至るまで。

旅先で、あるいは外国で暮らして一番よく経験するのは、日本について尋ねられることだ。これはもちろんお愛想だが、そこから話が弾むこともある。

こんな日常会話ですら発信することが求められる。だから、ここで恥をかくことがあるとするならば、日本に対する余りの無知ということ以外にない。外国語の力の不足ではない。そんなことで肩をすくめる人はいやしない。

ましてや何かの折に次のような会話になってごらんなさい。それも綺麗な発音で。

「シリアやウクライナの諸問題についてどう思うか?」「日本人は平和を愛します。そのために役に立ちたい」「それはすばらしい。ところで今回のドイツの武器輸出の決定をどう思う?」「平和は何よりも尊いです。そのために働きたい」

このようになるのがオチではちょいとまずかろう。誰だって平和を愛し、それが尊いことは百も承知だから。こんなところでかく恥はちとまずかろう。

僕たちはいったい英語で何をしたいのか、それが僕にはいまひとつピンとこない。言いたいこと、言わねばならないことが山ほどあるから、それを外に向かって表明したいから習う、という意思が見えてこない。

僕が前の記事で書いたのはそういうことだ。それは商業においても同様なはずである。僕には最も縁遠い分野だが。

要するに僕たちはまず日本語でものごとをしっかり言うこと。そのためにはものごとをしっかり見ることが大切だろう。

例にあげたシリア情勢などは一例に過ぎない。

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