季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

音楽の宿題

2014年07月29日 | その他
夏休みの宿題に音楽まであると聞いて驚いた。で、「音楽」「宿題」で検索してみたら沢山出てきた。

恐るべし。

僕が直接聞いた課題は、作曲家を一人選びその伝記を読んで、それを漫画にしてまとめよ、というもの。

ニラとカボチャとプリンを使って料理を考えてみろと言われた気分だよ。

夏休みの宿題が好きだという生徒は多くはあるまい。それでも何処かでその必要を感じているだろう。

しかし音楽でどこをどう突けば宿題が必要だという理屈が出て来るのだろう。

何か聴いてご覧、というなら誰しも何かは聴いているだろう。その曲を列記せよ、なんて言ったって無意味だし。

そこでせめて感想文を記せ、というのが一番平凡で穏健な宿題だろうか。(検索結果では作曲せよというのまであった。恐るべし。美術の宿題で画家の伝記を読んで、それに基づいて作曲せよ、なんていうのも時間の問題だな)

そこでこうなったらヤケクソで一捻りして貰いたい。

感想文なんて冗漫になる。俳句にして提出せよ。

ここで僕が自分でやってみたら、これがまた簡単なんだね。

運命や 岩に染み入る 蝉の声

一句完成、序でにもう一句

田園や 岩に染み入る 蝉の声

別にクラシックではなくとも出来るぞ。

ビートルズ 岩に染み入る 蝉の声

と、ヤケのやんぱちになる。宿題は必要ですか?
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恐竜の姿

2014年07月26日 | その他
何処だったか、新たな恐竜の化石が見つかったそうだ。

恐竜の化石は珍しくないが、今回の発見は特筆すべきものらしい。

それによるとその恐竜は全身に羽毛を有していたという。

今まで、骨格は化石によってよく知られていたが、その骨格の上にどのような肉や表皮が乗っていたかはあくまで想像の域を出ていなかった。もしかしたらティラノザウルスだって全身鳥の毛だらけだったのかも知れない。

このニュースを読んだ時、僕が反射的に思ったのは次のようなことだ。

古典舞踊を研究する人たちはステップを調べる。名前は何というのか知らないけれど、ステップを記した図がありますね。

あれを見て足の運びは知ることができる。でも踊りはそのステップの上にどのような上体のこなしがあるか、でまったく違った印象になる。ステップの集積からは想像するのは困難だ。

僕の連想はそんな所に行き着いた。佐渡おけさのステップからあの手の動きを理解するのは多分無理だな。

しゃれこうべからその人の美人度まで分かるというが、それは人類を知った上での知見だろう。

恐竜が羽毛に覆われていたとしたら、ジェラシックパークやゴジラはまったく違った印象をもたらすだろうね。本当はどんな姿だったのだろう?新たな発見を待つしかない。

その点は古典舞踊はむしろはっきりしているとも言える。アルマンドにしてもクーラントにしても、音楽があるのだから。

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サン・レミィ

2014年07月22日 | スポーツ
今ツール・ド・フランスがたけなわである。

昨日のコースの中にサン・レミィという町があった。

何処かで聞いたことがあるとボケた頭を巡らせることしばし、ここはゴッホが例の耳切り事件の後に入院していた精神病院があった町だと気付いた。

ゴッホの書簡集は昔何度も繰り返し読んだ。サン・レミィの名前は幾度となく目にしたし、画集を開けばサン・レミィ時代の作品群は膨大な量に上る。

自転車選手の健康な肉体が通過する背景にあるサン・レミィとゴッホの作品や書簡集から受ける印象が余りに乖離していて咄嗟には結びつかなかった。

実際の町はむかしもこのように平凡な日常の景色を提供していた筈だ。そしてその中でゴッホという名前の男が生きていた。

当たり前の日常だ。やれやれと思う。
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コルトー著 ショパン

2014年07月17日 | 音楽
コルトーの「ショパン」(河上徹太郎訳)を再読した。

聞くところによるとこの本は絶版だそうだ。

決して読みやすい本ではない。コルトーの文章が修辞過多の気味があるところへもってきて、河上さんの日本語が例によってざらざらした手触りで、ちっとも読み進まない。

河上さんと小林秀雄さんの対談で、小林さんが「いつまでも文章がへたくそだと思ったのは河上だけだよ」と語る場面があって、なかなか味がある。そうか、誰からも認められる悪文だったのだな、と変な感心の仕方をする。

コルトーの本についてひとことだけ言っておこう。

彼はショパンを論じるに当たり、まずショパンの手について考察する。手の石膏像が残されているのだが、それを様々に語りながらショパン自身の演奏を想い起こそうと力を傾ける。こんな語り口はピアノを実際に演奏している人でなければできないと思わせる。

内容について書く必要はあるまい。興味のある人は読めば良い、それだけだ。
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学校の音楽

2014年07月08日 | 音楽
教育実習から戻った学生から聞いた話だが。

中学校では「運命」を使ってソナタ形式を習うそうだ。

いったいこのような知識を教えなければならないものだろうか?大いに疑問である。

理解しろと命じられて聴いたり弾いたりする音楽はただの苦痛だろうに。好きで聴いている子には、半端な知識は嘘臭く邪魔以外の何物でもないし。

そもそも学校で音楽を習う必要があるのだろうか?

僕の考えは措いておくとして、こういった問題は各人がよく考えてみるものだ。

以前、似たようなことを僕が言った時、でも音楽の授業で聴いて以来クラシックが好きになったから、やはり音楽の時間は必要ではないかという人がいた。

確かにそういった経験者はいるだろう。
しかしそうした人は(多分)他のきっかけでも好きになっただろう。

そういった因果関係を言い出したら、人間ほど始末に負えない生物はない。

僕が今日ある(大した存在ではないにせよ)のは、当たり前のことだが、あらゆる出来事の総和だ。それを得心しているのは僕自身で、それは他の人にそのまま「移植」してはならない。というか出来やしないのだ。

立志伝中の人物の言葉が往往にしてバカバカしいのはそんなところに原因がある。

学校で音楽を教える是非についてはそのうち書きたい。また、陸上の為末さん(元選手)のツイッターの発言が(少なくとも)ネット上では話題になっているから、それについても書いておきたい。
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